ローマの信徒への手紙を読む(第73回)

73           人間のみじめさ(3)

もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、
もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分には、
いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、
わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
(ローマの信徒への手紙7章20〜23節)

 パウロはここで、わたしは善を望み、善をなそうと思っていると、また神の律法を喜んでいると語っている。ここに、人が神のかたちに似せて、はなはだよきものとして造られたことの反映を見ることができる。人は創造の冠として、神の栄光をあらわして生きるべきものとして、また他の被造物を神のみこころに従って治めるべきものとして創造された。

 パウロはここで人間の罪を深く掘り下げてはいるが、人間が創造のおりから罪人であったとは言っていない。造られた当初、人間には罪がなかった。人間に善をなそうという意志があるとは、造り主のみ言葉である律法をよきもの、聖なるものとして認め、律法を喜び、律法に聞き従って生きようとの意志を宿しているという意味であろう。被造物にとって善とは造り主のみこころに従うこと以外のことではないからである。これ以上に気高い志は、人間にとってはないからである。
 従って律法を喜び、律法を守ろうと意志するところに、神のかたちの照り返しを見ることができるのである。罪におちた後も、創造の秩序はこのようなかたちで、なお失われずに残り続けているのである。

 しかし、人は始祖アダムにあって罪におちた。その悲惨は、被造物の冠として造られたことの誇りと、律法に聞き従おうとする気高い志のもとでこそ、罪がおびき出されてくるということである。ここにおいてこそわたしの中に眠っている他者が目を覚ますということである。律法という聖なる、よきものを通して罪は目覚め、生々しく働き、わたしの五体を支配し、束縛するのである。
 すなわち、よきみ言葉を用いることによっても神の栄光ではなくみずからの義をたてようとする誘惑が人間にはある。そこにこそ人間の分裂と二重性があらわれる。これが人間のみじめさの真相なのである。律法を自力によって守り行うことでみずからを救い得ると説いていたユダヤ教ファリサイ派の一員であったパウロは、イエス・キリストにとらえられることにより、キリストの光のもとで、この人間のみじめさ(かつて彼もそこに身を置いていた)を底の底まで見つめないではおれなかったのである。

 わたしの中にもうひとつの法則があり、わたしの中に他者である罪が住み着いており、それゆえにわたしはふたつに引き裂かれ、調和を失い、平和を失ってしまっている。そしてわたしは、そのような自分をどうすることもできない。このみじめさをパウロは彼ひとりの事柄として語っているのではない。ひとりのアダムによって、全人類がこのみじめさの中におちいったのである。罪の問題はそのような普遍性を持ったものであるからこそ、彼はこれを「法則」と呼ぶ以外になかったのである。

 律法を守り行う。これは人間の誇りであり、気高い目標である。もしも人間に罪がなかったとするなら、自力で律法を守り行うことができたなら、神の定めに従うということは最高の可能性であり、最高の権利となり、最高の約束となったことであろう。
 しかし現実にはそこでこそあの分裂と矛盾があらわとなる。罪に売り渡された肉の人(14)の真相があきらかとなる。そこでは最高の可能性は最高の困惑となり、最高の約束は最高の危機となる。
 そのことが、すべての人間に妥当するのである。わたしがこのように罪を犯すと同時に、世界も、あらゆる人もこのようにして罪を犯すのである。これは法則なのである。このような世界大の真理に目を開かれるということが、わたしたちの救いにとってきわめて大切なことなのである
 5章12節にはアダム−キリスト論が述べられていた。この個所を思い起こしつつ、わたしたちは確かめておきたい。この罪の法則から抜け出すためには、古き人アダムからときはなたれるためには、イエス・キリストを信じる信仰によるほかはない。イエス・キリストに結ばれる洗礼にあずかり、キリストとともに葬られ、キリストとともに新しき人として復活し、キリストのみ霊の支配に生きる。これが救いである。そして、救いは神の恩寵である。
(2008.4.16 祈祷会)