ローマの信徒への手紙を読む(第74回)              

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
(ローマの信徒への手紙7章24節)

 24節はまさにパウロの肉声そのもののような叫びである。ローマの信徒への手紙はキリスト教教理の解説書、とくに信仰義認の教理についての本格的な解説書と言われる。それはそのとおりであろう。しかし、教理解説の書であるこの手紙の中に、このような人間の率直な、あるいは悲痛な叫びというものが響いている。それを聞いたならだれもが胸を打たれずにはおれないような、人間の真実の叫びがある。

 そのことはわたしたちに、キリスト教の教えを学ぶということはたとえば教科書をおさらいするような、あるいは機械の取り扱い説明書を読むようなことではないのだということを教えてくれるであろう。聖書を、また教理を学ぶということはわたしたちにとって命をかけ、実存をかけたいとなみである。そこでわたしたちはひとりの人間として神と向き合う。そこではわたしたちが神を問うということだけではなく、わたしが神に問われる、深いところまで神に問われるということも起こってくる。
 そして、わたしたちはそこで神に教えていただく。命と救いの真理を教えていただく。その道筋においては、とこにここでパウロが叫んでいるような、真実な叫びを聞くことにもなるであろう。あるいはわたしたち自身がこのような悲痛な叫びを叫ばされるということにもなるであろう。
 聖書とはひとりで、部屋の扉を閉ざしたところで読むべき書物ではなく、実際にキリストの教会に生き、教会に仕え、さまざまな問題に直面しながら、頭をかかえて悩み、あるいは自分の無力や惨めさにうちひしがれながら、けれどもそこで福音の恵みに生かされ、主のみ手に守られ助けられて生きることの恵みと感謝をおりあるごとに鮮やかにされる、そのような生活の中でこそ読んでいく書物であることがだんだんわかってくる。教理もまたそのような生活の中でこそはじめて理解されてくるのである。

 ハイデルベルク信仰問答は、全体が三部構成となっている。第一部は人間の惨めさについて、第二部はキリストによる救いについて、そして第三部は救いを受けた者の感謝の生活について述べる、そういう構成である。ウェストミンスター信仰基準などでも、基本的には同じである。つまり信仰問答はキリストの救いについて語り始める前に、まず人間の罪の悲惨について語るのである。救いを受けた者にとっては人間存在の惨めさを知ることは必須のこと、必要不可欠のことであるとの理解がそこにはある。つまり人間の惨めさをわきまえるということが、キリスト教信仰においては実に重大な位置を占めるのである。このことをよく理解しておりたい。

 パウロの語る惨めさとは、具体的には何であったのか。それは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているとの自己矛盾、自己分裂の中に身を置いていることの惨めさである。自分のうちに罪が住み着いている。生まれながらに罪の法則に支配されている。だから善を願いつつ反対に悪を行ってしまう。そういう自分をどうすることもできない惨めさである。

 パウロはこの惨めさを決して抽象的な問題として、教科書的に語っているのではない。イエス・キリストを憎み、教会を迫害する者であったという痛恨の過去が、パウロの叫びには裏打ちされているのである。もちろんこの罪の問題は「法則」と呼ばれる以上、パウロひとりの問題ではない。アダムのすえである全人類の問題である。パウロとともにすべての人間がこの叫びを叫ばねばならないのである。

 そしてそのような惨めさを引きずりながら生きる自分の体を、パウロは「死に定められた体」と呼ぶ。もちろん彼は今生きている。しかしわたしの体、わたしの五体はすでに死に定められていると彼は言うのである。なぜなら、死は罪の報酬としてもたらされるからである(6:23)。聖書においては人間の生き死には、あくまでも神との関係において定められる。肉体は生きていても、罪ゆえに神から引き離された者は、すでに死の中にあるのである。

パウロは、だれがこの惨めさから自分を救い出してくれるのかと叫ぶ。人間の真相を神の言葉を通して知らされた人にしか叫ぶことのできない叫びがここにはある。そしてパウロをはじめすべての人間をこの惨めさから、死の体から救い出してくださるお方はただおひとりであることを覚えたい。パウロはあのダマスコ途上で、そのお方と出会った。聖書を通してわたしたちもそのお方と出会うのである。  (2008.4.24 祈祷会)