ローマの信徒への手紙を読む(第75回)

75           人間のみじめさ(5)

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、
肉では罪の法則に仕えているのです。
(ローマの信徒への手紙7章24〜25節)

 7章24節で自分のみじめさについて語るパウロは、いまだそのみじめさから救われていない人間であろうか。
 そうではない。彼はすでに救われた人間、イエス・キリストのものとされている人間である。そうであるからこそ彼はだれがわたしを救ってくれるのかと問いつつ、25節では救い主イエス・キリストへの感謝をも口にしているのである。自分で問うて、自分で答えているのである。すでに彼は彼の救い主を知っている。
 では、わたしはなんとみじめな人間なのかとのパウロの叫びは、たんなるポーズであったのか。演技にすぎなかったのか。
 そうではない。この叫びはポーズでも演技でもなく、パウロの魂の奥底からしぼり出されてきた肉声である。
 では、そのことは何を物語っているのだろうか。人はイエス・キリストの救いを受けた後も、自分のみじめさを嘆く者なのだということではないだろうか。そして事実わたしたちも、キリストを信じる信仰の歩みをそのようにして歩んでいるのではないだろうか。

 おそらくここでのパウロについて、ふたつのことを言うことができる。ひとつは、彼は救われた後も、かつての自分のみじめな姿−ファリサイ人であったときの姿を決して忘れることがなかったということである。自分がいかに悲惨な場所から救出されたのかということを深く心に刻んで、忘れ去ってしまうことがなかったということである。イエス・キリストが罪の悲惨から救い出してくださったということ、これはパウロにとってもわたしたちにとっても、決して抽象的なことではない。たんなる論理の問題ではない。まさしく現実的な出来事であったのである。イエス・キリストの十字架の贖いによって罪人を無罪と見なし、罪の法則からときはなちたもう神の恵みはまさに罪に死んでいたわたしたちを生き返らせる、生きて働く恵みなのである。
 もうひとつは、キリスト者として、神の恵みにこたえて生きる感謝の生活の中にあっても、彼は自分のうちになお残り続ける罪とたたかっていたのだということである。そのたたかいの途上で、以前とはことなった意味においてではあったとしても、彼はわたしはなんとみじめな人間なのかとほんとうに叫ぶことがあったのではないだろうか。
 聖化のいとなみはわたしたちがキリストにあやかっていく道、日々キリストを獲得していく道である。それは義と認められてなおわたしたちの中に残り続ける罪とのたたかいの道である。そして聖化は死のときに完成する。
地上にあるかぎり、このたたかいは継続されるということである

 25節の「このように」以下は、後になってから書き加えられた部分ではないかとの見解がある。それは25節の前半でイエス・キリストへの感謝を語りながら、後半では「心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている」と語って、また自分のみじめさに戻っていってしまうような印象があるからである。つじつまが合っていないように感じられるからである。

 確かに「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」で文章を切ってしまったほうがすっきりする。感謝を語った後で、またすぐさま惨めさを語るというのは矛盾のようにも思える。

 けれども、ここにこそ救われてなお聖化の途上にある、それゆえに切実にイエス・キリストの恵みによりたのんで生きる人間−キリスト者パウロの赤裸々な姿が映し出されていると見ることもできるのではないだろうか。信仰の生活はそれほど単純に割り切れるものではないし、そのように論理的に割り切ってしまうことが必ずしも、ふさわしいことではないようにも思われるので
ある

 人はただイエス・キリストの十字架の贖いの恵みを信じ受け入れることによって義とされる。同様に、聖化の道筋もひたすらにキリストのみ霊の恵みによる。み霊がわたしたちをキリストに結合し、キリストにあやからせてくださるのである。その聖化の途上で、わたしたちはしばしばおのおのの罪の姿、おのおののみじめさに悩む。これもまた事実である。しかしわたしたちはそこで、もはや自分に頼ろうとはしない。ただひたすらにイエス・キリストにより頼み、イエス・キリストに望みをかけるのである。(2008.4.30 祈祷会)