ローマの信徒への手紙を読む(第76回)

76      人間のみじめさ(6)

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、
肉では罪の法則に仕えているのです。
(ローマの信徒への手紙7章24、25節)

 信仰問答書は(ウェストミンスターにせよハイデルベルクにせよ)罪について述べ、救いについて述べた後に救いにあずかった者の感謝の生活について述べるという構成になっている。この順序は正しく、望ましい順序である。
 しかしわたしたちが心にとめておくべきは、イエス・キリストの救いを受けて感謝の生活へとうつっていくということは、もうすでに罪の問題、人間のみじめさの問題がうっちゃられてしまう、わたしたちにとって無関係の事柄になってしまうというのではないということである。もしもわたしたちがそのように考えるとすれば、それは機械的な、もしくは図式的な理解と言わねばならない。むしろその感謝の生活、聖化への道を歩む歩みにおいても、人間の惨めさをなお忘れないということが実に大切な意味を持つのだと思う。

  ウェストミンスター小教理問答の問1に、人のおもな目的とは神の栄光をあらわすことであると言われている。確かにわたしたちは神の栄光のために、また自分を神にささげて生きることができるし、また生きるべきである。イエス・キリストが恵みによってわたしたちを義とし、子とし、聖なる者としてくださったからである。
 けれども同時にわたしたちは聖化の途上を歩む者であり、罪赦された罪人として生きる者である。それゆえに今なお自分自身のみじめさに向き合っていかねばならない者である。24節のパウロの叫びはほかならぬわたしたち自身の叫びなのである。

 わたしは今や聖なる者、神の栄光のために生きる者である。しかし同時に今も自分のみじめさを引きずりながらしか生き得ない者である。一方ではイエス・キリストの救いに感謝すると言いつつ、他方ではわたしはなんとみじめな人間なのかと叫ばずにはおれない者である。それゆえ罪の問題はもう終わりで、今はもっぱら栄光と献身だ、ということにはならない−このことをわきまえていることが、信仰の知恵である。このことがわきまえられていないと、あたかも自分がもう罪とたたかう必要のない完全な人間であるかのように錯覚するということが起こってくるのではないだろうか。そしてかつてのパウロのように、自分自身にも他者にも担いきれない重荷を担わせるということになるのではないだろうか。あるいはまた、完全な者である自分というものを演じきるために、ちょうどあの神の足音を聞いて身を隠したエデンでのアダムのように、自分のみじめさを人目に触れないところに覆い隠して封じ込めてしまう、事実あるものをないもののようにして隠してしまうということが起こってくるのではないだろうか。

 わたしたちは自分の、人間のみじめさを見つめることができるのである。むしろ(ここでのパウロのように)自分のみじめさを告白することができるということは、福音の自由のもとにときはなたれた人間の特権であり、恵みである。なぜなら、救われてなお残り続けるわたしたちの、人間のみじめさにおいてこそ、イエス・キリストはわたしたちと出会ってくださるからである。

 使徒信条にはイエス・キリストが陰府にくだりたもうたことが記されている。このキリストの陰府くだりについてカルヴァンは、キリストは決して十字架に死なれたのちに陰府にくだられたのではなく、すでにあのゲッセマネで陰府にくだっておられたのだと語っている。すでにそこで主はわたしたちにかわって罪の報酬としての死を味わっておられた。それほどまでに主はわたしたちのみじめさを担われた。そして、主はわたしたちのみじめさをともに担ってくださるために、完全に担い切ることのために、まことの人となられた。

 カルヴァンは、キリストは陰府くだりのときには一時神であられることを停止することさえなさったとも訳すことのできる、誤解を生むような思い切った表現で、この部分を述べている。それほどまでに人間のみじめさは深い。そして、それほどまでに主は人間のみじめさをご自身のものとして寄り添い、担ってくださった。そして福音の自由のもとでこれを克服し、ここからわたしたちをときはなってくださった。

これが福音の恵みである。この恵みにあずかるなかで、わたしたちははじめて自分自身の罪のみじめさから頭を挙げることができるのである。                     (2008.5.7 祈祷会)