ローマの信徒への手紙を読む(第77回)

77 霊の法則(1)

 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、
罪に定められることはありません。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、
罪と死の法則からあなたを解放したからです。
(ローマの信徒への手紙8章1
2節)

  7章では人間のみじめさの問題が深く掘り下げられて語られていた。このみじめさ、すなわち人間が生まれながらに罪と死の法則に支配されているという現実は全人類をおおうものであり、当然それはパウロその人の現実でもあったゆえに、パウロは自分自身もわたしはなんとみじめな人間なのか、だれが死に定められたこの体からわたしを救い出してくれるのかと叫ばずにはおれなかったのである。

 しかしパウロはもうすでに、だれが彼を、そして全人類を罪と死から救い出してくれるのかを知っている。救い主イエス・キリストを知っているのである。
 そこで、8章ではいよいよイエス・キリストの救いについて語り始められる。あらかじめ確かめておくなら、この章の全体をとおしてパウロはしばしば聖霊、イエス・キリストのみ霊について語る。これまでにも聖霊について触れられることはあった。けれども8章だけで「霊」すなわち聖霊という言葉が20回以上出てくる。これはやはり注目にあたいすることである。この8章は聖霊について集中的に論じられる章であると見ることができるのである。

 それはつまり、7章で語られた人間の苦悩、罪と死の苦しみということを受けて、そこからの救いということを語っていくにさいして、パウロはどうしても聖霊の働きということを集中的に語らざるを得なかったということであろう。現実の問題として、苦しみの中で、試みの中で、キリスト・イエスを信じて生きる者の生涯を支えるのは、何よりもキリストのみ霊の、生きて働く力である。そのことを思うなら、救いについて語ることはそのまま聖霊の力について語ることにほかならないのだという事実を知るにいたるのである。

 1節でパウロは言う。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」

 キリストに結ばれている者は、罪に定められることはない。これは原文ではたいへん強い調子の断定である。キリストに結ばれている者は、罪に定められることは断じてない、決してないというような意味の言いかたである。第二のアダム-イエス・キリストに結ばれた者は、第一のアダムにおいて定められていた罪の支配から決定的に自由にされたとパウロは宣言する。この宣言は、勝利の叫びのように響いている。そして、キリストと結合されて生きているわたしたちのひとりひとりも、今や決して罪に定められることはないのである。このことを信じるか、と主イエスはわたしたちに問いたもう。わたしたちはこのことをそのまま信じることを許されているし、また信じるべきなのである。

 なぜなら2節に言われるように「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放した」からである。洗礼によってイエス・キリストに結ばれたそのとき、わたしたちを支配していた罪と死の法則は、命をもたらす霊の法則によってうちやぶられ、根こそぎにされて、命のみ霊の法則にとってかわったのである。この命のみ霊の法則も「法則」である以上、揺るぎないものなのである。そして命のみ霊の法則が絶大な恵みの力として働き、罪と死の法則に完全に勝利をおさめたゆえに、もはや罪と死の法則が再び生え出てくることはないのである。

 まことにイエス・キリストこそわたしたちの命の、そして全人類の歴史の分岐点である。死と命の分岐点である。キリスト・イエスのみ霊の働きによって、死が命にかえられるというこの上ない、偉大な転換がもたらされたのである。人間がもはや罪にも死にも縛られない、命の自由の喜びのうちに永遠に生き続ける、そのような祝福がこのキリスト・イエスというお方によって、さらにキリスト・イエスのみ霊の力によってもたらされるにいたったのである。

 では、どのようなしかたでそのことは起こったのか。どのようにして神はわたしたちをキリスト・イエスのみ霊の法則へとうつしかえてくださったのか。どのようにして、わたしたちがもはや罪に定められることがないという恵みの事態が引き起こされたのか。すなわち、そこに神のどのようなみわざがふるわれたのか。次回そのことを見ていきたい。                           (2008.5.14 祈祷会)