ローマの信徒への手紙を読む(第78回)

78 霊の法則(2)

 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、
その肉において罪を罪として処断されたのですそれは、
肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、
律法の要求が満たされるためでした。
(ローマの信徒への手紙8章3
〜4節

 イエス・キリストのみ霊の働きによって、人の死が命にかえられるという、この上ないほどに偉大なことがもたらされた。人間がもはや罪にも死に縛られない命の自由の喜びのうちに永遠に生き続ける、そのような祝福がイエス・キリストのみ霊の力によってもたらされるにいたった。その大いなる事実を8章1、2節は語り示していた。 では、どのようなしかたでそれは起こったのだろうか。どのようにして神はわたしたちをキリスト・イエスのみ霊の法則にうつしかえてくださったのか。そこにどのような神のみわざがふるわれたのか。

 まずわたしたちが思い起こすべきは、
7章24節の「死に定められたこの体」という言葉である。
 ここにはもちろん、死は罪の報酬としてもたらされるとの理解がある。6章23節に述べられていたとおりである。では、そのように人間を罪ゆえに死に定めるのはだれなのか。人間自身が自分に罪のあることをさとって、そのように定めるのだろうか。
 そうではない。人間を罪に定めるのは神である。パウロはここで、たんなるムードでこのように語っているわけではない。「死に定められる」とは文字通り死刑の判決を受けるということである。そして人間に死刑の判決をくだし得る方は、神以外のだれでもない。
 もうひとつ思い起こすべきことがある。それは律法そのものはよきもの、聖なるもの、正しいものだということである。
 そしてまさしく、この聖なる、よき、正しき律法にしたがって、ご自身のみ言葉である律法にしたがって、神は罪人に死刑を言い渡したもうのである。誤解をしないようにしたいのだが、罪と死の法則が命の霊の法則にとってかわったとパウロが言うときに、しかしそこでは決して律法の聖なる、義なる機能が、つまり罪人に罪の正当な報いである死を宣告する働きは消えてしまったわけでも、一時停止してしまったわけでもないのである。

 ここでふたたび、7章に語られていた人間のみじめさが思い起こされなければならない。8章3節に「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」と言われる。この言葉がどういう意味なのかは、すでにこれまでわたしたちが見てきたとおりである。律法はよきものである。したがって、かりに律法を完全に守り行うこのとできる者があるとすれば、彼はその行いによって義とされる。

  しかし、すべてのアダムのすえは罪ゆえに、自力で自分を義とすることはできない。律法が神から来たよきものであることを承認し、律法の定めのとおりに生きることを望みつつ、反対に律法が命じていない悪を行ってしまう。すなわち肉の、罪深い、罪に売り渡され、支配されてしまっているという弱さゆえに、律法を守り行うことができない。これこそ人間の生まれながらのみじめさである。
 わたしたちはだれもが、この惨めさ、無力をどうすることもできないことを知っている。この体が生まれながらに罪に支配され、死に定められているのを知りながら、おのが無力をひたすらにかみしめるほかはない。それ自身はよきものである律法も、このみじめさ、無力ゆえに人間に救いの手をさしのべることはできない。ただ死の報いを宣告することによってみずからの正しさを証明し、その役割を果たすのみである。このことを知るとき、わたしたちのだれもがパウロと同様に、わたしはなんとみじめな人間なのかと叫ばざるを得ないのである。
 しかし3節は言う。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです」
 わたしたちは、この無力とみじめさのただ中で、「神はしてくださった」とのみ言葉を聞く。自力で自分を救い得ないわたしたちのために、神が救いのみわざをなしとげてくださった。御子イエス・キリストをとおしてなしとげてくださった。それゆえに、わたしたちはひたすらに神を仰ぐのである。神がわたしたちのためになしてくださったことに目を注ぐのである。                              (2008.5.21 祈祷会)