ローマの信徒への手紙を読む(第79回)

79 霊の法則(3)

肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、
その肉において罪を罪として処断されたのです。
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、
律法の要求が満たされるためでした。
(ローマの信徒への手紙8章3
4節)

 すべてのアダムのすえは、みずからの罪ゆえに救いにおいて無能力であり、自分で自分を義とし、救うことはできない。では、そのような罪人が救いに入れられたのはなぜか。ここでわたしたちは「神はしてくださった」(3)とのみ言葉を聞かねばならない。無力な人間のかわりに、神がしてくださった。人間には不可能なことを可能としてくださるために、神がみずから立ち上がってくださった。救いにおいては神こそが主権者であり、全権者であること。人間の側はゼロであること。これこそ聖書の使信であり、宗教改革者たちの確信であり、わたしたちの確信にほかならない。
 では、神がわたしたち人間のためにしてくださったこととは何か。この罪の世に、ご自身の愛してやまないひとり子を遣わしてくださったことである。すなわち人が罪と死の法則からときはなたれるにいたった、その祝福は、この世界の歴史の中で実際に起こされたひとつの出来事によってもたらされたのである。その出来事とは、神のひとり子イエス・キリストがゴルゴタの丘で十字架にかかって死なれたという出来事である。

 それはすなわち「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」(3)ということである。
 ヨハネによる福音書1章14節は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語る。聖書においては「肉」とは(肉体、という意味よりも)罪に支配された人間性そのものをさす。実に永遠の神が、永遠の神であられるままに肉となられたのである。「罪深い肉と同じ姿」となられたのである。それは文字通り、神がわたしたちと同じになられた、このわたしとひとつになられたということである。
 ただ、それはわたしたちと全く同じになられたということではない。同じ姿、かたちということである。すなわちわたしたちと同じように罪の誘惑にあい、罪とのたたかいを余儀なくされる、罪に対する人間の弱さ、みじめさということをきわみまで知り抜いておられる、けれども罪を犯すことはなかった、そしてわたしたちとはことなり、聖なる律法を完全に守りとおされた、そのようなお方として神はひとり子を世に遣わされたのである。

 そのようなことを踏まえたうえで、わたしたちは問いたい。
なぜ言は肉となられたのだろうか。なぜ神は御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送りたもうたのだろうか。

 それは肉の弱さのためにわたしたちがなし得なかったことを、御子においてなしとげてくださるためであった。御子の取りたもうた「肉において罪を罪として処断」するためであった。罪が処断される舞台は、あくまでもわたしたちの、人間の罪深い肉でなければならなかった。罪の報酬は死である(6:23)とのあの聖なる律法の定めが貫きとおされるべき場所は、あくまでもこのわたしの肉でなければならなかった。

 それゆえにこそ御子はわたしたちの肉を取って世に来たりたもうた。そして十字架の上で死にたもうた。その死はわたしたちの身代わりの死であった。その死によって、罪の報酬は死であるとの律法は貫きとおされた。この御子の死によって、律法は満足した。

 けれども、そのようにして罪人の罪の報酬を支払いたもうた御子には、罪はなかった。罪なきお方が罪の報酬を支払いたもうたことによって、罪の報酬は死であるとの、第一のアダム以来全人類を束縛し続けてきた法則が破綻することとなったのである。まさにこのときにキリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」(2)と語られるそのことが起こったのである。それゆえにキリスト・イエスの血潮によって贖われ、キリスト・イエスに結ばれ、キリスト・イエスのみ霊に生かされて生きる者はもはや罪に定められることはなく、永遠の命を持つのである。
 このことは人のなし得ることではなかった。ただ神のみがなし得ることであった。この出来事に、人は指一本触れていない。これはひたすらに神がなさったことである。
   人にはできないことを神は代わりになしとげてくださった。ここに神の愛がある。
愛する御子、罪なき御子を罪人の代わりに死なせたもうたのは、罪人に対する神の愛ゆえなのである。 (2008.5.28 祈祷会)