ローマの信徒への手紙を読む(第8回)

福音-神の義

 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙1章17節)

  福音には、神の義が啓示されていますが、それは、
初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
(ローマの信徒への手紙1章17節)

 人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる。
自分の力で義なる者となるのではない。
自分が神の
前に、神のためになした何者かを認めてもらうというのではない。
神がわたしたちのためになしてくださったみ
わざによって、
神の恵みによって義としていただくのだ。
それゆえ信仰によって義とされるということは、
ただ
ちに恵みによって義とされるということをも意味する。

 生まれながらの人間のうちには、
自力で義人に成り上がりたいという欲求がきわめて根強く根を張っている。

その代表的な例をユダヤ教ファリサイ派に見ることができよう。
人が救われるのは神の律法を一点一画もおろそ
かにせず、
おのが努力によって守り通すことによって、
神の水準にまでのぼりつめていくことによる-そう彼ら
は考えた。

 そしてわたしたちはこの手紙の著者であるパウロ自身が、
イエス・キリストに出会うまでは
この教えを熱心に
奉じていた人であったことを知っている。

 ユダヤ教ファリサイ派から回心したパウロの語る、
この信仰による義の解説を通して、マルティン・ルターも
また
福音の再発見へと導かれる。

 宗教改革者となる以前のルターはローマ教会の修道士であった。
当時のローマ教会も、人が救われるためには
神の前に功績を積んで、
神の要求する義を満足させなければならないと説いていた。
修道士ルターも救いを求め、
魂の平安を求めて、
教会の教えのとおりによきわざに励んだ。
徹夜、祈り、断食
⋯それは命がけの、壮絶な戦いだった。

 ルターは自分の、人間の内面を鋭く深く洞察することのできる人だった。
それゆえ、厳格な修行を続けるほど
に彼の苦悩は深まっていった。
神の恵みを得ようとする努力の背後におのが偽善の根、
抜きがたいエゴイズムの
根を見ないではおれなかったから。
神の義は完全なる義である。
一方人間の義は不完全である。
不完全な、生ま
れながらの罪人である人間が
神の完全な義に立ちいたろうとする
-その奮闘努力は救いにいたるどころか、
逆に
神の義に裁かれて滅びにいたる道ではないのか。
ルターは神の義を恐れ、さらには、神は恵みの神だと聞いてい
たが、
かえってその義をもって自分を滅ぼそうとするお方にちがいないと
神を憎み始めるにいたる。

 しかし、ルターにも回心の日は備えられていた。
摂理的であったのは、彼が新約聖書を研究し、
講じる人でも
あったことだった。
ある日彼はローマの信徒への手紙1章17節を研究していた。
そしてひとつの発見をした。

「この時はじめてわたしは神のあわれみを理解し始めた。
ここで神の義という言葉で、その土台の上で義人(す
なわち信仰者)が
神からのおくりものによって、
すなわち信仰によって生きるところの義が理解された。
そして
あの文章の意味は、福音の中に神の義が啓示されたということである。
すなわち神がわれわれ無価値なものを
仰によって義とするという受動的な義が啓示されたのである。
『義人は信仰によって生きる』と書いてあるからで
ある。」(W・v・レーヴェニヒ『教会史概論』)

 神の義とは能動的な義ではなく、受け身の義であった。
すなわち人がみずから獲得しなければならないもので
はなく、
人が神から譲り受ける義であった。
イエス・キリストは十字架に死んで、わたしたちの身代わりに
罪の
報酬を支払われることによって、
神の前に義と認められた。
そしてキリストはご自身がかちとられた義を、
無力
な罪人にプレゼントしてくださったのだ。
上等の上着を着せてくださるようにして、わたしたちにまとわせてく
ださったのだ。
そして、これをあたかも私たち自身がかちとった義であるかのように
見なしてくださったのだ。
だからわたしたちはおのが救いのためにがんばらなくてもよい。
神がひとり子イエス・キリストを通して、すべ
てをなしとげてくださった。
わたしたちは、この大いなる贈り物を感謝して受け取るなら、それでよい。

 この発見によってルターの魂にはじめて喜びと平安とがやってきた。
神が恵みの神であることのほんとうの意
味を、彼ははじめて理解した。
発端は小さな文法上の発見、「冷静な言語学的結論」(レーヴェニヒ)であった。

真に聖書を重んじるとはこのようなことではないだろうか。
神の言葉は世界と人とを根本から変革する。
(2007.11.8 祈祷会)