ローマの信徒への手紙を読む(第80回)

80 霊の法則(4)

肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、
その肉において罪を罪として処断されたのです。
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、
律法の要求が満たされるためでした。
(ローマの信徒への手紙8章3、4節)

   神はひとり子イエス・キリストを、わたしたちの身代わりに十字架に死なせたもうた。御子はわたしたちと同じ肉の姿をまとわれたが、わたしたちとはことなって罪なきお方であった。それにもかかわらず罪の報酬としての死(6:23)を死なれた。そのことによって、アダム以来人間を支配し続けていた罪と死の法則は破綻するにいたった。そのようにして神は御子によって罪と死の法則を命のみ霊の法則にかえたまい、そこにわたしたちをも招き入れてくださった。
    以上は3節において述べられていたことであった。このことを踏まえたうえで、わたしたちはさらに4節が語っていることをよく聞き取りたい。「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(4)

よく注意して読みたい。パウロは3節で語っていたイエス・キリストの十字架の贖いのみわざ、御子が受肉し、その肉において罪を罪として処断されたというみわざが「わたしたちの内に、律法の要求が満たされるため」になされたみわざであったと言っているのである。つまり、あくまでもわたしたちの目標は律法の要求を満たすこと、律法を守り行うことにあるのだということである。
    つまりこういうことである。確かにイエス・キリストの十字架のみわざによって、わたしたちは罪贖われて義とされた。従ってわたしたちは、今や罪に定められることはない。
    けれども、実はそれがすべてではない。それは、言わば事柄の半分にすぎない。救いの完成、成就ということを考えるなら、さらにもう一歩すすんで考えなければならない。

人は律法を守り行うことによって命を得る。これは神の永遠不変の秩序なのである。わたしたちがイエス・キリストの身代わりの死によって死の判決をまぬかれ、無罪とされても、この秩序そのものは消えてしまうのでも、中断されるのでも、停止されるのでもなく、
残り続けるのである。

わたしたちが命にいたるためには、どうしてもわたしたちが律法の要求を満たして生きるということが考えられねばならない。なぜなら確かに今やわたしたちはアダムのもとにはなく、キリストのもとにあるのではあるが、そのわたしたちに神は依然として律法に、ご自身のみ言葉に従って生きることを求めておられるからである。カルヴァンは、律法とはキリストであると語った。律法に従うことはキリストに従うことなのである。

罪の赦しは大いなる恵みである。イエス・キリストの福音とは罪の赦しの福音である。しかし、罪の赦しにあずかるとは律法を守り行うことが反故にされるということではない。パウロは以前、キリストはわれわれの罪をすべて赦されるのだから、今後は安心して罪を犯すことができるという誤った考えかたがこのローマの教会にも見られたことを指摘し、これを厳しくしりぞけていたが(これを無律法主義という)、まかり間違えるとキリストの教会の中にもこのような安易な福音理解が入り込んでこないともかぎらないのである。ウェストミンスターにせよ、ハイデルベルクにせよ、改革派の信条は救われた者の感謝の生活について語ることをおろそかにしていない。なぜなら救いを受けた者たちの神への感謝は、神の律法を守り行ういとなみにおいて、具体的にあらわされるからである。罪赦された者は、赦されたけれども依然として自分勝手な道を行くのではないのである。キリストに結ばれた者は救いの恵みを心に刻みつつ、キリストのみかたちを求めて生きるのである。

ところで、イエス・キリストによって救われる以前のパウロ、ユダヤ教ファリサイ派の一員であった当時のパウロも、当然この神の永遠不変の秩序を知っていた。人は律法を守り行うことによって義とされ、救いを受けるのだということを知っていた。
   けれども彼はそのさいに、そのしかたを決定的に誤ってしまったのである。すなわち自力で律法を完全に、寸分たがわず守り抜こうとしたのである。自分が罪深い肉であり、肉の弱さのゆえにそのことができなくなってしまっているという、そのみじめさに気づかぬままに、そういうしかたで救いを得ようとしたのである。今キリストにとらえられたパウロは、その当時とはまったく反対のことを語るのである。
                  (2008.6.4祈祷会)