ローマの信徒への手紙を読む(第81回)

81 霊の法則(5)

 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、
その肉において罪を罪として処断されたのです。
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、
律法の要求が満たされるためでした。
(ローマの信徒への手紙8章3
4節)

 人は神の正しき、よき律法を守り行うことによって命を得る-これは永遠不変の秩序である。そのことをキリスト者パウロはもちろん知っているし、ファリサイ人であった当時のパウロもまた知っていた。しかし、その律法を守り行うしかたということでは、今キリスト者となったパウロは、ファリサイ人であった当時とはがらりと考えかたを変えている。百八十度反対のことを考えている。
 すなわち、人は自力で律法を守り行うのではない。それは命にではなく、逆に死に至る道である。そうではなく、人はキリスト・イエスのみ霊に生かされ、み霊の恵みに導かれることによって、はじめて律法の求めを満たすことができる。命の道を歩むことができる。わたしたちが肉にではなく、霊に従って歩むときにこそ、わたしたちのうちに律法の要求が満たされる。
 わたしたちは「肉の弱さ」ゆえに、もはや自力によって命を得ることはできない。しかし神はそのようなわたしたちを死から命へと移してくださるために、もうひとつの道を備えてくださった。それがキリスト・イエスのみ霊によって歩む道である。キリストの命の法則に生かされる道である。自分の力でなく神の恵みに頼り、守られ、うながされつつ律法を守り抜いていく道である。わたしたちにこの道を用意してくださるために、神は愛する御子を十字架につけ、その肉において罪を罪として処断なさったのである。
 わたしたちは今やそのような道-イエス・キリストのみ霊にあって、イエス・キリストとの交わりに生きる道をひたすらに歩んでいる。イエス・キリストとともに古き人を十字架上で葬られ、イエス・キリストとともに復活の命、新しい命を生きている。イエス・キリストというお方と離れがたく結ばれ、生きるとすればキリストのために生きる、キリストとともにでなければ生き得ない、そのようなひとりひとりとされている。これがみ霊に生かされて生きるということで
ある。

 では、キリストに結ばれ、キリストのみ霊に生かされるとは具体的にはどのようなことであろうか。
 それは、わたしたちが救われてなお身を置いているあのみじめさを、イエス・キリストがそのまま受け入れてくださっているということである。善を願いつつ反対に悪を行ってしまう支離滅裂なわたしたちの存在をキリストがその根元から支えていてくださり、愛していてくださるということである。そしてキリストとわたしたちとが、神の愛の絆であるみ霊にあってしっかりと結びつけられているということである。
 罪人であるわたしたちを愛し、赦し、支えていてくださるこのキリストの愛と恵みに感謝し、わたしたちもまた心からキリストに信頼し、誠実にこたえる。すなわち洗礼を受け、み言葉をきき、聖餐にあずかる。わたしたちの命と人生、心と言葉と行いのいっさいをキリストにゆだねる。もはや自分に頼って生きようとせず、キリストの恵みに生かされて生きる人間であろうとする。それが命のみ霊の法則に生きるということである。
 そしてそのようにして生きるなかで、み霊の恵みの力を受けて、わたしたちは律法の要求を満たし、律法を守り行って命にいたる、あのひとすじの道を成就することができるのである。

 主イエスは狭い門から入りなさいと仰せになった(マタイ7:13)。狭い門から入るとは、みずから艱難辛苦をのりこえよということではない。ここで狭い、とは唯一の、という意味である。つまり救いにいたる、命にいたる道はただ一本きりである、イエス・キリストというお方を通る道、イエス・キリストのみ霊に導かれて歩く道、これのみだとの意味なのである。
 自分で自分を救おうとする道、肉に従って生きる道には、つねに恐れと危険とがともなう。しかしイエス・キリストが先立って歩んでくださるそのみ姿を仰ぎ、自分もイエス・キリストに手を引かれながら一歩また一歩と歩んでいくなら、わたしたちはその道にあって確かに守られるのである。 み霊に信頼し、み霊にゆだねる。それがわたしたちの道である。その道にあってこそわたしたちは律法が純金にまさって望ましく、蜂の巣の滴りよりも甘い(詩19:11)ことを知るのである。そして律法をまっとうし、命にいたるのである。                         (2008.6.11 祈祷会)