ローマの信徒への手紙を読む(第82回)

82 霊と肉(1)

肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、
霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、
神の律法に従っていないからです。
従いえないのです。
肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

(ローマの信徒への手紙8章58節)

 8章58節では、パウロは霊と肉について論じる。そして霊と肉とがたがいに対立するものであることをあきらかにしている。6節に「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」と言われるとおりである。
 しかし、この箇所を見ていくときに、わたしたちはひとつの誤った考えかたを避けねばならない。それは人間を霊と肉のふたつの領域に分けて、霊は次元が高いけれども肉は次元が低いと、あるいは霊はきよいけれども肉は汚れているとする考えかたである。そこでは、霊はつねに肉によって汚される危険の中にあるので、人は霊によって肉をよく抑制し、自分をきよく保っていなければならないとされる。
 このような考えかたを霊肉二元論という。これはそもそもギリシアの思想に由来するもので、本来聖書にはこのような考えかたはない。
 ただ、この考えかたはキリスト教の歴史の中にも、あるいはキリスト教会の中にも入り込んできた。たとえばコリントの信徒への手紙を見るなら、これがコリント教会にも影響を与えていたことがわかる。コリント教会のみならず、これはローマ・カトリック教会にも、そして時にプロテスタント教会にも入り込んできた、そして今も入り込むことのあり得るものであることを覚えておりたい。

パウロはこのような考えかたを、聖書的ではないものとしてしりぞける。聖書では、ひとりの人間を霊と肉、魂と肉体の全体性においてとらえる。神は人をご自身のかたちに似せて、創造の冠としてきわめてよいものとして創造された。さらに人は、霊と体とを持つ者として造られた。だとすれば、霊のみがよく、肉は悪しきものとして造られたというのではないことはあきらかである。人はその全体性において、本来はよきものなのである。

しかし霊肉二元論では肉は、すなわちこの世界は、すなわち見ゆるものは汚れた、悪しきものだと考えられる。そもそも見える世界を、天地を創造した神は悪しき神だとされるのである。そこではどのような姿勢が生じるだろうか。ひとつには現実逃避的、禁欲主義的な傾向に傾くということが起こるであろう。この世は汚れた、悪い場所なのだから、キリスト者はこの世とかかわりをもっておのが身を汚すべきではないということになるからである。そうするとキリストの教会は、山中深くこもって自分たちだけのユートピアをつくるということになろう。
 が、これはたとえば創立宣言の「食らうにも飲むにも神の栄光をあらわす」との主張と根本的に対立するものである。キリスト者はこの世から逃れていくのではない。この世のただ中に身を置いて、そこにしっかりと足場をすえて、そこで世の光、地の塩として生きるのである。そのようにして、この世の、神の造られた世界のただ中に神のよき支配をきたらせるのである。

もうひとつには、反対にきわめて快楽的な、無律法的な姿勢が生じるであろう。つまり魂と肉体とははじめから切り離されており、肉体は所詮汚れているわけなので、肉体をどれほどの無節操にゆだねたところでそれは魂に影響することはないと考えられるからである。ともかくこのふたつの姿勢のいずれも、霊肉二元論というひとつの根から出ていたのである。
   では、パウロがここで言う霊とは、また肉とは何か。繰り返しになるが、聖書にあっては人は霊と肉との全体性においてとらえられる。霊肉をひっくるめた存在として考える。
   そして8章3節には、御子イエス・キリストが罪深い肉と同じ姿で世に来たりたもうたと言われていた。それは御子が霊肉ともに、わたしたちと同じ罪の支配のもとにある人間として来たりたもうたということである。
   すなわちここに言われる肉とは、第一のアダムにある人間をさす。霊肉ともに始祖アダムにあって、罪と死の支配下にある人間をさす。
それに対して霊とは、イエス・キリストにある人間である。霊肉ともにイエス・キリストの支配下にある人間、キリストの命のみ霊の法則にある、み霊の導きのもとに歩む人間をさす。そうであるなら、当然霊の道と肉の道、霊の支配と肉の支配とは対立するのである。           (2008.6.25 祈祷会)