ローマの信徒への手紙を読む(第83回)

83 霊と肉(2)

 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、
霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、
神の律法に従っていないからです。
従いえないのです。
肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

(ローマの信徒への手紙8章58節)

 ここで「肉」「霊」と言われているのは人間を魂と肉体というふたつの領域に分ける考え、いわゆる霊肉二元論ということではないことはすでに確かめた。すなわちここでの肉とは第一のアダムにあって、霊肉ともに罪と死の法則に支配された人のことであり、霊とは霊肉ともに罪と死の支配から解放されて、イエス・キリストの命のみ霊の法則に生かされている人のことであった
 ところで、人がみ霊によって新しく生まれ、キリストのものとして生き始めた後にも、人は神の聖なる、よき律法を守り行うことによって義とされ、救いを得るとのあの原則に変わりはないのだということをも、わたしたちはすでに確かめた。ここで、すなわち律法を守り行って命を得ようとするそのところで、人の道はまさしくふたつに分かれるのである。ふたつの道は真っ向から対立しているのである。

 5節の「肉に従って歩む」とは、キリストぬきに律法を自力で守り行う、自己義認の道である。この道については、すでにパウロはみじめな道であることをあきらかにした(7:24)。
 それに対して「霊に従って歩む」とは、十字架のキリストを信じる信仰によって義とされ、キリストにあって神の子とされ、キリストのみ霊の恵みによって聖なる者とされる、キリストと結合され、ひとつとされていく道である。そして前者は死にいたる道であり、後者こそ命と平和にいたる道(6)である。わたしたちは自力で命と平和にいたるのではない。神が信仰をとおして、恵みによってわたしたちを命にいたらせてくださるのである。まさしく人は神の恵みによって生きるのである。
 先の霊肉二元論においては、どうしても霊と肉とを調和させるという方向に傾いていくであろう。そこでは霊の働きは、どうしても汚れた、よこしまな肉を霊がなだめる、押さえ込むというふうに考えられることになるからである。実際にギリシアの思想においては、人間の理想像を調和に求める傾向がある。そこでの調和とは、肉の暴走を霊がなだめ、
押さえ込んでいる状態である。

 しかし聖書には、霊と肉とが調和をはかる、そして両者のかけひきによって妥協点を見出すというような考えかたはない。霊の道と肉の道とはあくまでもたがいに対立するものである。まさにあれか、これかである。一方は命の道であり、他方は死の道である。パウロは、福音の恵みに人間の功績を付け加え、教会の事柄をこの世的な妥協によって解決しようとしたガラテヤの教会の人々を、あなたがたはみ霊によって始めたことを肉によって仕上げようとするのかといさめている(ガラテヤ3:3)。

 パウロはここでローマの信徒たちに、またわたしたちにも、明確な決断をうながしている。今や古いアダムの時代は過ぎ去った。アダムは過去の人となった。今あなたがたはキリストの支配のもとに置かれている。今は恵みの時、救いの日である。だからみ霊に従って歩みなさい。肉の人を脱ぎ捨て、霊の人として歩みなさい-。
 わたしたちもパウロのこのうながしにこたえて、霊の人として生きるべく、神が備えたもうた命にいたる道へと一歩を踏み出したい。
 もちろん、霊の人にも苦悩やたたかいはある。肉の人が霊の人に生まれ変わることによって、新しい苦悩やたたかいを背負い込むということさえあろう。なぜなら霊の人もまた、いまだ聖化の途上にあるからである。しかし、そのような「聖なる」苦悩やたたかいを正面から引き受けて歩む歩みにおいて、神はわたしたちを鍛え、ととのえてくださることもまた確かなのである。
 主イエスは弟子たちに、思いわずらうことなく、ただ神の国と神の義とを求めよと仰せになった。もちろん弟子たちが信仰の道の途上でさまざまに思い悩み、試みを受けることを知っていられたうえで、あえて思いわずらうなとおっしゃったのである。なぜならキリストのおられるところでこそ、人はさまざまな思いわずらいからときはなたれるのだからである。キリストを知り、キリストのみ霊にゆだねて生きる道こそ、思いわずらいからの解放の道だからである。                          (2008.7.2 祈祷会)