ローマの信徒への手紙を読む(第84回)

84 霊と肉(3)

 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、
霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
肉の思いは
死であり、霊の思いは命と平和であります。
なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、
神の律法に
従っていないからです。
従いえないのです。肉の支配下にある者は、
     神に喜ばれるはずがありません

(ローマの信徒への手紙8章5
8節)

 人は律法を守り行うことによって命を得る。イエス・キリストのみ霊の支配下に生きる者たちもしかりである。そして彼らは、地上の生涯にあるうちはそのいとなみの途上にある。彼らはすでに霊の人であるが、なお肉の人が残存し、肉の人にひきずられている。ここに霊の人と肉の人とのたたかいが生まれる。が、必ず霊の人は肉の人に勝利することができる。この神の約束は確かである。
 では、霊の人であるわたしたちはこのたたかいをいかにして担うべきであろうか。肉の人に勝利するために、どのようなたたかいかたをなすべきであろうか。

 まず何よりもわたしたちは、イエス・キリストがご自身のみ霊において、わたしたちの肉の人とたたかってくださるのだということを心に刻みたい。このたたかいはわたしたちにおけるたたかいではあるが、わたしたちがたたかうのではない。キリストがたたかってくださるのである。神は、霊によってわたしたちのうちに始めてくださったよきみわざを、霊によって完成せしめてくださるのである。このみわざの主導権をわたしたちの手にゆだねるということを最後までなさらないのである。あるいは、わたしたちがこのみわざに割って入ることを決してお許しにはならないのである。

 肉の人は自分の思いをとげようとするが、霊の人は何よりも神のみこころがなることを求める。霊の人は律法の要求を自力で満たそうとは考えない。キリストがこのわたしにおいて律法をなしとげ、律法の求めを満たしてくださるのだということを知っているからである。キリストがわたしの内にあって律法を成就してくださるのだということを知っているからである。わたしのほうでキリストというお方を自分の思うままに利用し、自分の義をたてるというのではない。そうではなくキリストがわたしの内にあってご自身の義をたて、ご自身の栄光をあらわしたもうのである。それが5節に言われる、霊に従って歩む者は霊に属することを考えるということの意味なのである。そしてウェストミンスター小教理問答の問1が、人の目的は神の栄光をあらわすことであると言うのは、そのような意味なのである。つまりイエス・キリストをとおして、わたしたちにおいて律法が守りとおされ、成就され、わたしたち義とされた罪人がそのようにして命に導かれることによって、わたしたちの五体をとおして神の栄光が-神の救いの恵みの力があらわされるということなのである。

 だとすれば、わたしたちがわたしたちが霊に従って歩むその道は、主の祈りの第一祈願-御名をあがめさせたまえとのあの祈りに、結局は尽きるということになろう。霊の人の道とは祈りの道にほかならないのである。霊の人が肉の人に勝利するための武具とは祈りにほかならないのである。
 肉の人は祈ることをしないであろう。自力に頼むなら、祈りは不要だからである。それゆえサタンもまたキリスト者を誘惑に陥れようとするときには、彼から最も大切な武器を、すなわち祈りを奪う。彼を祈らない人にする。しかしわたしたちは、祈ることなしにはこのたたかいを担うことはできないのである。
 祈りとは神のみこころを求めることである。信仰とはわたしたちの命と人生のいっさいを神にゆだねることである。わたしたちは祈るとき、自分の道を神に譲って、そこに神に通っていただくのである。

 わたしたちはキリストのみ霊に信頼し、み霊の導きにゆだね、み霊がみ言葉をもって指し示したもう道に従う。そこにこそ霊の人の歩むべき道筋が開かれてくる。肉の人の道とはまったくことなる、相反する道が開かれてくる。

 霊というと何か不可思議な力とか、心理的な、あるいは精神的な現象のようにイメージされがちである。しかしキリストのみ霊は人格をもってわたしたちに働きかけたもう生けるまことの神であられる。わたしたちがイエスを主と告白できたのも、み霊の生ける働きがあったからこそである。み霊は霊の人を力強く導き、彼を守り養い、導き続けてくださる。霊の人はみ霊に信頼し、ゆだね、従う。み霊を愛する。み霊もまた、彼を愛してくださる。そして命の道をまっとうさせてくださるのである。           (2008.7.9 祈祷会)