ローマの信徒への手紙を読む(第85回)

85 キリストの命(1)

 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、
肉ではなく霊の支配下にいます。
キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、
霊は義によって命となっています。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、
あなたがたの内に宿っているなら、
キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、
あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
(8:9〜11)

 11節に言われる。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」
 このパウロの言葉は何を意味しているのだろうか。わたしたちの死ぬはずの体が生かされるとはどのような意味であろうか。そのことを学んでいきたい。

  今回はひとつのことについて確かめたい。すなわち「イエス・キリストを死者の中から復活させた方の霊」が、今ここにいるわたしたちのひとりひとりの内にも宿っておられることを覚えたい。パウロはもし宿っているなら、と仮定の表現を用いているが、パウロの手紙の中でこのような言い回しが出てくるときには、まずまちがいなくもうすでに宿っている、確かに宿っているという意味であると言ってよい。つまりイエス・キリストをよみがえらせたもうた方、主なる神のみ霊が、すでにあなたがたのうちに宿っている、あなたがたを生きて支配しておられる−そのようにパウロはローマの信徒たちに語っているのである。

  主の日の礼拝は、イエス・キリストの復活の記念であり、死からよみがえって今も生きておられる主イエスを崇めるときである。主イエスの復活を祝うというのは、たんに主イエスを追憶するということではない。二千年前に死なれた主イエスのありし日のお姿を追憶し、なつかしむということではない。そうではなく、そこでわたしたちはまさによみがえられたキリストと出会うのである。生けるキリストが聖霊においてわたしたちと出会ってくださるのである。そしてこのお方をよみがえらせたもうたお方の霊が、今ここでわたしたちのうちに宿っており、わたしたちの命を生かし、わたしたちを支配しておられることを確かめるのである。

  わたしたちが囲む主の晩餐の礼典において示されることも同じである。主の食卓を囲むということは、ただ主イエスの十字架を追憶するということではない。主イエスは主の晩餐の礼典を制定なさったおりに「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われた(一コリント11:24)が、ここでの「記念」とは「追憶」「懐古」ということではなく、復活の主のみ霊が主のみ体を飲み食いする者たちにも分け与えられる、そして彼らの命を文字通り生かす命となる、そのようにして主イエスこそがわたしたちの霊と体との主となりたもう、わたしたちの五体を支配したもう、そういうことが起こされるのである。主の食卓はまさしく聖霊による命の秘儀のあらわされる場なのである。

  主イエスを復活させたもうたお方の霊が、今わたしたちをも支配している。そのことをはっきりと証明することとなったのは、ペンテコステの出来事である。主イエスがよみがえられてから50日めに、エルサレムに集まっていた使徒たちに主イエスのみ霊がくだりたもうた。そしてこのときにキリストの体なる教会が誕生した。すなわち教会とは、主イエスのみ霊を受け、主イエスのみ霊によってひとつに結ばれた者たちの共同体である。教会の起源は人間にあるのではない。神が、主のみ霊が教会を生み出したのである。ともかく主イエスのみ霊が主イエスを信じる者たちを生きて支配したもうとの神の恵みの約束が、このように聖霊降臨のみわざによって、み言葉のとおりに実現し、成就したのである。

  キリストの霊を持たない者はキリストに属していない。しかし神は主のみ霊をわたしたちのうちに宿らせてくださるために、わたしたちを霊の人となしてくださるために、愛するみ子を十字架に死なせ、復活させ、ペンテコステの出来事を備えてくださった。この恵み深き神が、主の日ごとに、また主の食卓を囲むたびに、わたしたちにみ顔を向けてくださるのである。わたしたちと顔と顔とを合わせて出会ってくださるのである。そしてわたしたちの命を、ご自身の命によって生かし、養ってくださるのである。それゆえに、わたしたちにとって文字通り「生きるとはキリスト」(フィリピ1:21)なのである。