ローマの信徒への手紙を読む(第86回)

86 キリストの命(2)

 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、
あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。
キリストの霊
を持たない者は、キリストに属していません。
キリストがあなたがたの内におられるならば、
体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、
あなたがたの内に宿っているなら、
キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、
あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
(ローマの信徒への手紙8章9〜11節)

 イエス・キリストを死者の中から復活させた方の霊が、今わたしたちのうちに宿っているとはどういうことか。もう少し考えてみたい。
 死ぬはずの体が生かされるとは、たとえばどういうことか。冬には枯れた草木が春になるとまた芽吹くというような、自然の命の循環のようなことが言われているのだろうか。あるいは仏教に言われる輪廻転生のようなことだろうか。
 そうではない。聖書における復活の信仰は、そういうこととはまったくことなるものである。

 この「死ぬはずの体」という言葉から、すでに聞いたパウロの言葉が思い起こされないだろうか。7章24節で彼はこう言っていた。「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」
 結論を先取りして言うなら、実はここで、このパウロの叫びへの答えが語られているのである

 そこで、7章24節の「死に定められた体」とはどのような体であったのかということをも、今一度確かめる必要がある。それはただたんに、人はいつか死を迎えるというような意味ではなかった。もっと深い意味があった。
 すなわちパウロは、そのように人が死に定められていることを、人のみじめさの問題としてとらえていた。みじめさこそが死をもたらすということである。そのみじめさとは何か。望んでいる善は行うことができず、望んでいない悪を行ってしまう自己矛盾、自己分裂である。そして、それは人の五体を罪の法則が支配し、とりこにしているためである。罪の報酬が死(6:23)なのである。
 これにより、たとえ肉体は生きていても、罪に支配されているために実際には死の中にあるということが人にはあるのだということがわかる。聖書は、とくに宗教的な、信心深い人間でもなく、病気やさまざまな問題によって人生が行き詰まった人間でもなく、自分は健康で神などいらないと思い込んでいる人々であっても、実際には生ける屍でしかないのではないかと問いかけるのである。自覚しているかどうかは別として、人はひとりの例外もなくこの「死に定められた体」の問題をかかえこんでいるのではないかと問いかけるのである。 

 ただ、聖書はそのような「生ける屍」としての人間の真相をあばき出すだけではない。
その「死に定められた体」から、人がいかにして救い出されるのかということをも語り示すのである。

 人はいかにして救い出されるのか。7章25節でパウロは語っていた。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」
 パウロは言う。人はイエス・キリストを通して、この死の体から救われる。もっとていねいに言うなら、イエス・キリストの十字架と復活のみわざが、教会が二千年にわたって受け渡してきた、のべ伝え続けてきた福音が人を救うのである。
このキリストの十字架と復活にこそ、キリスト教信仰の真髄があるのである

 この福音によって、パウロもまた救われた。自分が何をしているのかわからないために悪を行っていた、教会を迫害していた彼に、あのダマスコ途上で復活の主イエスが出会ってくださった。それは彼にとってどれほど大きな、感謝と喜びに満ちた出会いであったことか。彼はこのときに、神の永遠の愛に触れたのである。どれほど大きな罪をもゆるし、どれほど深い憎しみをも溶かし、罪とその報いである死に支配された人間の体をもよみがえらせ、生かしめる神の愛を知ったのである。

 そしてこの愛に支配され、この愛に包まれて生きるときにこそ、神を愛し隣人を愛せよとの律法の求めにこたえ、律法をまっとうして命を得るいとなみが可能となるのだということを、彼は知ることとなったのである。愛のみ霊こそが、死ぬはずの体をも生かすのである。            (2008.7.23 祈祷会)