ローマの信徒への手紙を読む(第87回)

87 キリストの命(3)

 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、
あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。
キリストの霊
を持たない者は、キリストに属していません。
キリストがあなたがたの内におられるならば、
体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、
あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、
あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
(ローマの信徒への手紙8章9〜11節)

 罪人のために死んでよみがえられたお方の霊によって、救いはなしとげられる。かつてはファリサイ人であったパウロも、復活のキリストとの出会いによって救われた。罪ゆえに死ぬべき者の身代わりとなってその罪を贖い、永遠の命を無償で与えてくださる神の愛によって救われたのである。 この事情は主イエスの弟子たちにあっても同じであった。三度主を否んだペトロもまた、この愛によって救われた。ペトロをはじめとする弟子たちは、十字架の主を見捨てて逃げた。もしも十字架が最後の出来事であったとしたら、弟子たちの群はちりぢりに散ってしまい、今日のように全世界に福音がのべ伝えられ、教会がたてられるということはなかったはずである。そして彼らは生ける屍のような人生を送っていたはずである。 主イエスは復活された。彼らの罪を贖いたもうた主は、彼らを死の体から救い出すために復活されたのである。復活の意味については、彼らは自分の経験や知識によっては知ることができなかった。人はそれを上よりの啓示によって知り得るのみである。 
 復活のキリストとの出会いは、わたしたち人間にとってどれほど大きな、感謝と喜びに満ちた出会いであることだろうか。復活の主との出会いによって、人は神の愛を知る。どれほど大きな罪も、裏切りも、憎しみも赦し、生まれながらに罪ゆえに死ぬべきであった体をもよみがえらせ、生かめる神の愛を知るのである。この愛に支配され、この愛に包まれて生きることこそが、主イエスのみ霊に生かされて生きるということなのである。そしてこの愛にあってこそ人は神を愛し、隣人を愛せよとの律法の求めにこたえ、律法をまっとうして命にいたるのである。
 復活の主の愛によって、人は新しい人間として復活する。パウロに、ペトロに起こったことが、現代の教会とわたしたちひとりひとりの人生にも起こる。すなわちイエス・キリストを死者の中から復活させられた方のみ霊が今わたしたちのうちにも宿り、わたしたちの五体をも生かしてくださっているのである。

 けれどもわたしたちは言うかもしれない。イエス・キリストを信じた後にも、あのみじめさが相変わらずわたしたちをとらえているではないか。日常生活に劇的な変化もなく、自分の弱さや欠けは覆うべくもないではないか。わたしはほんとうに救われていると言えるのだろうか。キリスト者と言えるのだろうか。
 おそらくそのように感じているときには、わたしたちはある理想を思い描いているのである。たとえば聖人君子的な、完全無欠の理想的人間像を頭の中で思い描いているのである。
 信じるとはどういうことか。救われるとはどういうことか。そのことは理想を描くのではなく、どこまでも聖書に即して理解しなければならない。パウロにせよペトロにせよ、あるいはアブラハムやダビデも、信仰をもったことで完全無欠の人間になったというのではない。彼らは信仰者となった後も、さまざまな失敗をした。相変わらず肉の弱さに悩み続けた。

 しかし、彼らがイエス・キリストを復活させられた方の霊を持ったことは確かであった。復活し、今も永遠に生きたもう主のみ霊が彼らのうちに宿りたまい、彼らの命を支配なさったということ、そしてこの復活の主のみ霊の強力な恵みの力によって、彼らの生涯が最後まで守り導かれたということは確かであった。
 そして彼らは、主イエスがゲッセマネで祈られたあの祈り−父よわたしの思いではなく、みこころにままになさってくださいとのあの祈りを、自分自身の祈りとして祈り続けたのである。わたしの考え、わたしの計画をしりぞけて、みこころを行わせてくださいと生涯祈り続けたのである。復活の主イエスのみ霊が彼らを支配しておられたからである。信仰とは主イエスのみ霊、神の恵みの支配がわたしのうちにあって、わたし自身をみ霊の支配にゆだねて生きるときに、わたしのうちに神のみこころがなるということを信じることなのである。わたしのうちに恵みの神が臨在し、働きたもうことを信じることなのである。     (2008.7.30 祈祷会)