ローマの信徒への手紙を読む(第88回)

88 神の霊によって(1)

 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、
それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。
しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

(ローマの信徒への手紙8章12〜14節)

 パウロは12節で、わたしたちには一つの義務があると語っている。この「義務」という言葉は、別の聖書では「責任」と訳され、また別の聖書では「負債」と訳されている。ともかくこれは神への義務、神に対して果たすべき責任、あるいは神に支払うべき負債ということである。
 つまり、救いを受けた者は神の救いの恵みにこたえて生きなければならない。わたしたちはキリストの十字架の贖いによって罪赦され、罪と死の法則から自由にされた。しかし、このキリストにある自由は自分勝手な、無責任な自由ではない。キリスト者は自分を自由にしてくださったお方に負債を負っているのである。このお方に対して果たすべき責任があるのである。

 ただ、それは「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務では」(12)ない。なぜならキリスト者は今や肉の人ではなく、霊の人だからである。キリストにあって生きる者は、すでに肉、すなわちアダムにある古い人、罪の人を葬られているのである。罪の人と絶縁しているのである。6章3節以下に、わたしたちは洗礼によってキリストとともに古き人を十字架につけられ、葬られ、キリストとともに新しい人として復活したと語られていたとおりである。
 そのようにわたしたちが肉に死んだのなら、もはや肉において何の責任もない。何の果たすべき義務もない。もはや肉の求めに従い、これを満足させる必要はない。肉に対して義理立てする必要はないのである。

 霊とは何か。主イエスは仰せになる。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)またウェストミンスター小教理問答4問も、神は霊であると言っている。霊とは神のことである。そして神に導かれて生きる人間は、霊の人と呼ばれる。
 それに対して肉とは、先にも見た古いアダムにある人間、罪の法則の中にある人間を、あるいは罪に支配された世界を言う。ただもう少し踏み込んで考えるなら、肉に従って生きるとは、自分を神として生きるということであろう。あるいは自分の手で生み出したものや、この世が生み出したものに身をささげて生きるということであろう。偶像にひざまずいて生きると言ってもよいかもしれない。
 神は永遠者であられる。それに対してこの世のあらゆるものはやがて過ぎ去り、朽ちゆく。そのようなものを永遠絶対であるかのように思い込み、まことの神ととりちがえ、これにひれ伏して生きる倒錯の生を、聖書は肉に従い、肉のご機嫌をとり、肉におもねって生きる生と表現するのである。 
そのように考えるなら、肉とは自分の命や能力、地位や名誉、富、あらゆるこの世的な価値観、あるいは国家やこの世の権力や制度、習慣といったさまざまなものを含む言葉であることがわかる。こうしたものを絶対化し、あがめ、執着しているかぎり霊の、み霊の働く余地はない。本来神がいますはずの場所に神以外のものが座を占めるとき、聖書はそれを肉に従った生き方と呼ぶ。そして、人間の社会の悲惨と不幸の根本原因はここに根ざしているのである。

 霊に従って歩む者は、もはや決して肉に対して義務を果たそうとしたり、義理立てしようとしたりはしない。肉に媚びたり、おうかがいを立てたりして生きるのではない。つまり自分自身を神の座にまつりあげたり、人間やこの世が生み出したものを絶対化したりはしない。
 なぜなら真の絶対者、永遠者、唯一の神を知っているからである。人が真により頼むべきお方、礼拝すべきお方を知っているからである。ウェストミンスター小教理問答1問が言うように、人生の目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことであることを知っているからである。そして、そのように生きるところでこそ人は真の自由と解放を得るのだということを知っているからである。         (2008.8.13 祈祷会)