ローマの信徒への手紙を読む(第89回)

89 神の霊によって(2)

 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、
それは、肉に従って生きなければならないとい
う、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。
しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

(ローマの信徒への手紙8章12〜14節)

 わたしたちはすでに神の霊によって導かれている、霊の人である。そうである以上、もはや肉に義理立てして生きる必要はない。とはいえ、この世は今も霊と肉の、たがいに対立しあう力の支配のせめぎあいの場所である。わたしたちは家庭でも職場でも地域社会でも、さまざまな摩擦やたたかいの中を生きている。またキリストを信じて生きる者たちひとりひとりにあっても、霊の力と肉の力とはあたかも土俵上で組み合うふたりの力士のように組み合っている。完全聖化は死の時までない。新しい人とされた後も、
古い人とのたたかいは生涯にわたって継続するのである。

 さらに、そうした個人のレベルにとどまらず、教会共同体もまた聖化の途上、霊のたたかいの途上にある。カルヴァンはキリストの教会においてはキリストの主権がうちたてられるべきことを強調しているが、教会に真に教会のかしらなるお方の主権が樹立されるためにも多くのたたかいと修練とが必要とされるであろう。だからこそパウロは13節で「霊によって体の仕業を絶つ」べきことをうながしているのである。「霊によって体の仕業を絶つ」を、別の聖書翻訳は「聖霊の力によって肉の力の働きを殺す」と訳している。
 つまり霊に従って生きるとは、キリストのみ霊の力によって肉の力の働きを日々殺して生きることにほかならない。もちろんわたしたちの肉の人は、6章でパウロが語っていたとおり、キリストとともに十字架につけられて一度死んだのである。しかし、肉の人は実際には今なお生き返ってくる。息を吹き返してくる。それほどにしぶといのである。それゆえ、絶えず殺さなければならない。殺し続けねばならない。そうするならばあなたがたは生きるとパウロは言うのである。

 しかしそれならば、肉の人を殺すとはどういうことであろうか。いわゆる禁欲によって、世俗の欲望や汚れを絶つということだろうか。滝に打たれ、火にあぶられて、精進努力して肉を殺す、絶ち切るということだろうか、そうではない。
 あるいは、これは霊的な熱狂や高揚感を求めるということでもない。そもそもキリストのみ霊は、何か得体の知れない霊的力とか、何らかの心理的現象といったものではない。人格をもってわたしたちに働きかけ、わたしたちにみ言葉を教え、わたしたちを戒め諭し、わたしたちのためにとりなし、わたしたちをキリストとひとつに結びつけてくださるお方である。わたしたちがイエス・キリストをわが主と信じ、告白することをゆるされたのも、このキリストのみ霊のお働きによるのである。

 13節にあるように、体の働きを絶つのは霊である。イエス・キリストを死者の中から復活させた方のみ霊がわたしたちのうちに宿ってくださっている。わたしたちが神をアバ父と呼び、なお罪の残滓の中にありつつも父のみこころを求めて生きていることが、その証拠である。この霊のみが、わたしたちの肉の人を殺してくださるのである。このみ霊のお働きに信頼し、ゆだねて生きるということが、神の霊に導かれて生きるということであり、それがわたしたちが神の子とされているということなのである。
 パウロは14節で、神の霊によって導かれる者は皆神の子であると言っている。本来神の子とはイエス・キリストを言う。しかし神は、イエス・キリストを信じる者たちをも子としてくださる。親しくわが子よ、と呼んでくださる。
 それはなぜであろうか。ほかでもなく、イエス・キリストが霊によって導かれて地上のご生涯を歩まれたように、キリストを信じる者たちも同じ霊によって導かれて生きるからである。キリストを死者の中から復活させた方の霊がわたしたちをも住まいとしてくださっている。この霊に導かれて、わたしたちもまたキリストと同じ道を歩むのである。この世の子らが父を愛し、父に従うように、キリストも父なる神を愛され、父に従いとおされた。キリストを信じる者たちもキリストにあって神の子とされ、神の霊を受けた。彼らもまたキリストと同じようにみ霊に導かれつつ父なる神を愛し、父なる神に従って生きるのである。 (2008.8.20 祈祷会)