ローマの信徒への手紙を読む(第9回)

9 人間の栄光と悲惨(1)

 世界が造られたときから、
目に見えない神の性質、
つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、
これを通して神を知ることができます。
従って、彼らには弁解の余地がありません。

(ローマの信徒への手紙1章20節)

 1章18節以下に語られているのは、人間の栄光と悲惨についてである。

天地創造のおりに、神は
人間をあきらかに鳥や獣や這うものとは異なったしかたで
造りたもうた。
神はご自
身にかたどり、
ご自身に似せて(創世記1:26)人を創造された。

 人が神に似せられている。
それは、神と同じく霊を持つ者だということである。
「あなたはわたしたちを、あな
たに向けてお造りになり、
わたしたちの心は、あなたの内に休らうまでは不安なのです」(アウグスティヌス)
「造
り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」(1:25)

それゆえ人は神との霊的な交わりに生きる。
神を礼拝して生きる。

「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」
                             (ウェストミンスター小教理問答1問)

 これが人生の目的である。
そのような者として造られているところに、

人の幸いと栄光とがある。

 しかし、最初の人間アダムにあって、人はこの栄光を失った。
この木の実を食べるならあなたが神のようにな
れるのだ(創世記3:5)
−そうサタンから誘われて、人は神の言葉に背いて木の実に手を伸ばした。
始祖のこ
の背きの罪によって、全人類に罪が入った。
そして罪の報いとしての死が入った。
人は神とともに生きる。
造り
主なる神から引き離されるなら、人は生きることはできない。

 この背きによってインマヌエルの祝福は失われた。
神と人とのあのうるわしい交わりは失われた。
そして、神
の似像としてのあの栄光のすがたは失われた。

その悲惨は、何よりも礼拝という局面において顕著にあらわれることとなった。

 パウロは、人間には弁解の余地がないと論じる(20)。
何に対して弁解の余地がないのか。
神を知ることがで
きないことについてである。
人は言う。この世に神などあるはずはない。
もしもこの世に神が存在するなら、た
めしに一度神を見せてほしい。
そうしたら、信じよう。

 けれどもパウロは言う。
神は存在しないのではないし、
ご自身を人の目から隠しておられるわけでもない。
はご自身の存在を、そしてそのみ力のすばらしさを、
今なおはっきりとあらわしておられる。
何を通してか。み
ずから造りたもうた自然を通して。
「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」(詩編19:2)。
にもかか
わらず神が見えないのは、
人の目のほうが罪によってくもらされているからだ。
人の霊のまなざしが罪によって
さえぎられているからだ。
だから、神には責任はない。
だから、人には弁解の余地がない。

 罪に堕ちてなお、人は礼拝する者、
生まれながらに「永遠を思う心」(コヘレトの言葉3:11)を宿す者であ
る。
それは創造の秩序だから。
けれどもその永遠を思う心は今や罪よって鈍く、
暗くされ、永遠者−造り主には
まっすぐには向かわない。
どこに向かうのか。
「滅び去る人間や鳥や這うものなど」(1:23)、すなわち被造物
のほうへ。
神のかたちに造られ、神を礼拝し、
神の栄光をあらわして生きるべきであった人間が
「神の真理を偽
りに替え、
造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕え」(1:25)るにいたった。
なんという倒錯。なん
という悲惨。

 けれども神は、神が見えなくなってしまった私たちのために、
全人類のために、大いなる恵みをあらわし
てくださった。
わたしたちがもう一度ご自身のもとに帰っていくことができるように、
みずから橋をかけてくだ
さった。
すなわち、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださった。
そして御子を十字架につけてわたしたち
の罪を贖い、
取りのけてくださった。
そして、御子について証しをする書物−聖書を備えてくださった。

 このみわざにあずかって、わたしたちはふたたび造り主を、
永遠なるお方をはっきりと見、まっすぐに仰ぎ、
このお方を礼拝し、
このお方の栄光をあらわして生きるすこやかな人間、
本来の人間のすがたを取り戻すことが
できた。
神が見えなかった私たちに、神がみずから近づきたもうて、
インマヌエルの祝福を回復してくださ
ったのだ。
なんという恵みであろうか。
                   
(2006.11.15 祈祷会)