ローマの信徒への手紙を読む(第90回)

90 神の子とする霊(19)

 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、
神の子とする霊を受けたのです。
この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
(ローマの信徒への手紙8章15節)

 15節には、ふたつの霊が並べられ、対比させられている。人を罪の奴隷とする霊と、人を神の子とする霊である。わたしたちはかつては罪の奴隷であった。罪を主人とし、罪に支配されて生きていた。
 人が罪の奴隷とされているとき、そこに示されるひとつの顕著なすがたは、恐れである。罪に支配されるとき、人は恐れの中で生きざるを得ないのである。
 人を恐れに陥れる霊、というパウロの言葉から、わたしたちがまっ先に思い浮かべるのは、エデンで善悪の木の実に手を伸ばし、神の言葉に背いたアダムと妻のすがたであろう。創世記3章8節を見ると、ふたりは神が園の中を歩まれる足音を聞いて、神を恐れ、神のみ顔を避けて、園の木の間に身を隠したとある。創造された当初のアダムはあらゆる被造物の冠として、神のかたちに似せて、はなはだよきもののきわみとして造られた。そのときもちろんアダムに罪はなかった。神が彼に愛をもって呼びかけ、彼も神に愛をもってこたえる、そのような神との幸いな、まったき交わりの中に、彼は生かされていた。
 しかし罪を犯したとたんに、彼は神を恐れたのである。神のみ顔を避け、神から隠れたのである。罪ある人間は恐れの中に生きている。罪人はこの世のさまざまなものを恐れる。しかし、人間の根本的な恐れは神への恐れである。神を恐れる恐れから、人を恐れ、世のもろもろのものを恐れる恐れが生じるのである。

 そのような恐れのあるところでは、信頼や愛は成り立たない。それゆえに造り主との関係が、すなわち人間にとっての根本的な関係が損なわれてしまったところでつくり出される社会には、やはり真の愛と信頼が失われてしまっているということがあるであろう。おたがいに愛をもって交わることを願いながら、おたがいを恐れ、相互不信の中を疑心暗鬼になって生きなければならないということが、この人間社会のさまざまな局面において見受けられるのである。
 それならば、わたしたちはどのようにして恐れからときはなたれるのであろうか。どのようにして愛と信頼の関係を回復し、再建していくことができるのであろうか。
 まず造り主との関係を修復することである。罪を悔い改め、神にたちかえることである。真の愛と信頼の土台は、神をあがめて生きるところでこそ築かれていくのである。
 その意味で、神なき時代と言われる現代は、人間同士が愛し合い、信頼し合うその基盤を失っている時代であると言うことができる。現代社会に起こりくるさまざまな深刻きわまる問題も、その根はまさにここにあるのではないだろうか。

 定期的に牧師たちの集まりが持たれる。説教のつとめを担う者同士の集まりであるので、しばしば説教が話題にのぼる。そこでいつも問い合うのは、現代社会、神なき時代と呼ばれる時代に、神の言葉はいかにして語られるべきか、届けられるべきかということである。人をまことの愛と信頼と平和のうちに生かしめてくださるお方、人の恐れを取り除くことができるお方のみ言葉を語ることが説教のわざである。そのような言葉をゆだねられている者の責任の重さをいつも深く思わされる。
 いずれにせよ、罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架をとおして罪の赦しの恵み、造り主との和解の恵みをいただくときに、わたしたちはもはや罪の奴隷ではない。イエス・キリストのみ霊が、わたしたちを奴隷とする霊の支配から、わたしたちを解放してくださったからである。わたしたちを神の子としてくださったからである。
 そして、イエス・キリストのみ霊が、今わたしたちの人生の歩みを確かに導いてくださっている。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出」す(一ヨハネ4:18)。神に愛され、ひとり子を十字架につけるほどの神の大きな、深い愛を受け、神の子とされる霊を受けたわたしたちには、恐れはない。
 これは驚くべき恵みである。このような恵みの中に、すでに今わたしたちの命は置かれているのである。そのことをあらためて覚え、救いの神に感謝したい。

                                (2008.8.27 祈祷会)