ローマの信徒への手紙を読む(第91回)

91 神の子とする霊(2)

 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、
神の子とする霊を受けたのです。
この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
(ローマの信徒への手紙8章15節)

「アッバ」とは父親を意味するアラム語である。アラム語は主イエスが地上を生きられた時代のユダヤの人々が日常語として用いていた言葉で、主イエスもまたこの言葉を話された。実は「アッバ」というアラム語は、幼児語である。まだ舌も回らない幼子が父親を呼ぶ言葉である。そして「アッバ」は、主イエスが父なる神に祈られるときに用いておられた呼びかけの言葉である。
 旧約聖書以来、このような幼児語で神を呼ぶなどということはおよそ考えられないことであった。十戒の第三戒は、主の名をみだりにとなえることを禁じている。聖なる神の名を呼ぶことはまさに恐れ多いことで、イスラエルは祈りのさいにはみ名をみだりにとなえることによって神の刑罰を招かぬよう、細心の注意を払ったのである。現代のイスラエルにおいてもユダヤ教の礼拝で、教師が旧約聖書を朗読するときには神の名をわざと違う発音で読むと言われている。読み間違いを未然に防ぐためである。
それほどまでに、聖なる神の名を呼ぶことが慎まれてきたのである。

 ところが主イエスはそのような、遠く旧約聖書の時代からの聖なる習慣をいともたやすく破りたもうて、神をアッバと呼びたもうた。幼子が父親に呼びかけるように、まことに親しく呼びたもうたのである。これは前代未聞のことであった。このことから、父なる神と神のひとり子イエス・キリストとの特別な関係を跡づけるある聖書学者の研究は、たいへんよく知られているのである。

 しかし、よく理解をしたい。主イエスが父をアッバと呼ばれたということだけではないのである。わたしたちも父なる神をアッバと呼ぶことをゆるされているのである。父なる神はみ子イエス・キリストにあって、わたしたちをも神の子としてくださった。わたしたちのひとりひとりを神の子とする霊を授けてくださった。今や、主イエスを導きたもうたその同じみ霊が、わたしたちをも支配し、導いてくださる。それゆえパウロは、神の霊によって導かれる者は皆、神の子だと言うのである。
 もちろんそこには実子と養子の区別はある。主イエスは永遠から永遠に神の子、実子であられる。それに対してわたしたちは主イエスの贖いの恵みによって神の養子とされたひとりひとりである。 神が父であり、人が神の子であるという関係が決して自然に成立している関係ではないのだということをわたしたちは知らねばならない。本来わたしたちは神を恐れ、神のみ顔を避けて生きていた者たちである。神と向き合ったならば、たちまちに聖なる怒りにあって滅ぼされるべき、唇の汚れた罪人である。

  そのようなわたしたちが、なぜ神の子とされたのか。神がこのような罪人を愛してくださったからである。ルカによる福音書15章の放蕩息子が無一文になって帰ってきたとき、彼の父がそれにもかかわらず晴れ着を着せ、手に指輪をはめ、足に履き物を履かせ、肥えた子牛をほふって、大切な客人をもてなすように迎えたように、父なる神は最愛のひとり子をわたしたちの罪の身代りの小羊として十字架に死なせるほどに、ご自分に背いたわたしたちを愛し、ゆるし、ご自分の子として迎え入れてくださったのである。このみ子キリストの十字架のみわざなしには、わたしたちは神の子とはされなかったということを覚えたいのである。
 しかし神は、養子であるわたしたちをも、実子のようにして愛してくださる。わたしたちにみ子の霊を授けてくださったことがその証明である。この霊によって、み子がご自分を呼びたもうその同じ呼び名で、ご自分を呼ぶことをゆるしてくださっているのがその証明である。
 かつて神から遠く離れていたわたしたちが、み子と同じように信頼をこめて、アッバ父と親しく神を呼ぶことができる。わたしたちがそのような父を持っている。これは驚くべき事実、はかり知れない祝福である。そしてそのような大いなる祝福をいただいている以上、わたしたちの人生の歩み、命のいとなみが、新しいものとしてあらたまってこないはずがないのである。このお方がわたしたちの父となりたもうた。そのことが起こった以上、わたしたちはあらゆる恐れから締め出され、神と人とのまったき愛と信頼の交わりとが回復されないはずはないのである。                             (2008.9.3 祈祷会)