ローマの信徒への手紙を読む(第92回)

92 終わりの栄光(1)

 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、
取るに足りないとわたしは思います。

(ローマの信徒への手紙8章18節)

 8章18節以下は、ローマの信徒への手紙における終末論と呼ばれている箇所である。ローマの信徒への手紙の全体が終末論的色合いを色濃く持っているわけだが、中でもこの箇所にそれが濃いということである。わたしたちもこの箇所をとおして、聖書の終末論についての理解を深めていきたい。
 聖書の終末論を学ぶにあたっては、ふたつのことに留意する必要があろう。ひとつのことは、実は終末論とはもっぱら世の終わりのことだけを考えるというのではないということである。世の終わりの事柄を現在、この今という時代や歴史、あるいはわたしたちの生活のいとなみと切り離して考えるとすれば、それは終末論を正しく考えているとは言えないのである。終末論の関心の中には、もちろん世の終わりの事柄も含まれる。けれども終末論の眼目は、わたしたちが今この時をどのように生きているのかというところにこそある。
 つまり、終末論とはこの世の終わりにもたらされる栄光や祝福の約束を確信し、そこに希望を置きつつ、今起こっていることをとらえていくことである。終わりの日の希望が、わたしたちの現在の生きかたに深いかかわりをもたらすのである。終わりの日の栄光と祝福の約束があるからこそ、わたしたちは今を希望をもって、強められ、励まされて生き抜くことができるのである。
 その意味で、18節のパウロの言葉をしっかりと心に刻みつけておきたい。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」
 現在、今、確かに苦しみの現実がある。けれどもそれは将来の栄光に比べると、取るに足りない。だからわたしたちは今を希望をもって、力強く生きることができる。18節は終末論的な考え方、もしくは姿勢を一言で言い表している言葉である。

 心がけるべきもうひとつのことは、終末論とはただわたしが終わりの日に救われるのかどうかという、個人的な関心にはとどまらないということである。わたしひとりが救われるなら、あとはどうなってもかまわないということではない。つまり終末論とはこの世界の問題、宇宙的な問題でもあるのである。
 それゆえにパウロは、19節から22節では被造物のうめきについて語る。創造の冠として神のかたちに似せて造られ、全被造物を神の代理として統治するつとめを与えられた人間が罪におちた、その人間の罪の影響をこうむって全被造物も虚無に服し、うめきの中に置かれているという現実があるのである。
 さらに23節から25節では、教会のうめきについても語られる。もちろんこれは、わたしというひとりのキリスト者のうめきではなく、この世界に生きる教会共同体の、聖徒の交わりとしての教会のうめきである。教会のかしらなるキリストがこの世の苦しみをご自身のものとして担われた以上、キリストの体なる教会もこの世界、この時代の苦しみと無関係ではない。この世とそこに生きる人々の苦しみを自身のものとして担い、そしてとりなすのである。

 ともあれ、罪の苦しみ、うめきは個人のものではなく、この世界のすべての被造物がともにうめき苦しんでいる。また、かしらなるキリストに結ばれた聖徒らが、この世界にあって今も、やはりともにうめきと苦しみとを分け持っている。
 しかし、それはただ苦しみに終わるものではない。うめきは空しく帰するのではない。救い主イエス・キリストによって全被造物が贖われる日が来る。つまり現在のうめきや苦しみは、将来おとずれる栄光の生みの苦しみ、陣痛のようなものにすぎないのである。ここにわたしたちの希望がある。この希望こそがわたしたちの今を支えるのである。
 ある神学者はキリスト教の救いとは創造の回復であると言ったが、それは正しい。イエス・キリストの贖いのみわざは個人にとどまらず、被造世界全体に及ぶ。そしてその恵みは終わりの日にこそ成就する。はじめに神は天地万物をきわめてよきものとして造られた。終わりの日に、よきことのきわみがもたらされる。すべての造られたものがイエス・キリストに贖われ、古い天と地は過ぎ去り、新しい天と地が到来する。キリストの再創造のみわざが完成するのである。この終わりの日の完成の祝福から現在の天と地を見据えて生きることが、終末論的に生きるということである。                       (2008.9.10 祈祷会)