ローマの信徒への手紙を読む(第93回)

93 終わりの栄光(2)

 現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、
取るに足りないとわたしは思います。
(ローマの信徒への手紙8章18節)

 今回は18節のみを取り上げる。18節は、続く19〜25節で語られる事柄の全体を先取りし、一言で要約していると言えよう。
 まず「わたしは思います」という言葉である。わたしは思う、と言っているが、これはパウロ個人が主観的に述べた意見や憶測といったものではない。パウロが聖書をつまびらかに調べて、聖書に語られている事柄をよく検討して、だれもが認めることのできるものとして責任をもって引き出した結論、いわば聖書的、神学的な結論である。
 その結論とは何か。「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」ということである。
 まずパウロは現在、この今において苦しみの現実が存在していることをはっきり認めている。パウロ自身も苦難の生涯を歩んだ。イエス・キリストの福音を宣べ伝える使徒であったゆえに、彼はしばしば迫害を受け、囚人として鎖につながれ、最期は殉教の死をとげた。
 しかし、キリスト者はキリストご自身の歩みをそのままなぞる者であるゆえに、キリストが苦難にあわれたように自分自身も苦難にあうのだということを、つまり苦難においてもキリストにあやかるのだということを、パウロは先にも述べていた。キリストが十字架を負われたように、キリスト者のひとりひとりも自分の十字架を背負って歩む。このことのないキリスト者の歩みというのは考えることができないのである。

 先の17節では、パウロはこうも言っていた。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるのです」
 このように、苦難を受けるということは神の子のしるしでもある。キリストの苦しみをキリストとともに苦しむことが、神の子として父の財産を、すなわち終わりの日の栄光を相続することの証明でもあるのである。キリストが苦難を通って栄光へと至った。そのように、キリストを信じる者たちのひとりひとりも苦難を通って栄光に至るのである。
 以上のように、キリスト者の生涯は苦難と栄光にいろどられた生涯である。このふたつのものが、キリスト者であること、神の子とされていることのしるしである。イエス・キリストの一度目の到来と、終わりの日の再臨との時の間を、信仰によって生きる者たちのしるしである。

 そして、そのことを踏まえたうえで、現在の苦しみは将来の栄光に比べるなら取るに足りないとパウロは言うのである。
 「取るに足りない」とは比較にならない、比べることさえできないという意味である。パウロは現在の苦しみと将来の栄光とを並べて、比べてみようとはしているが、これらふたつは比較を絶しているのである。
 ここでのパウロの信仰の姿勢をこそ、わたしたちは学び取るべきであろう。パウロはここでただ栄光だけを、ただ喜びだけを見ているかのようである。苦しみはきわめて微小なものであるかのようである。一方、栄光は大海のようであり、大火のようでもある。まさにこれこそが、終末論的思考そのものである。これがキリストを信じて生きる者が世界と人生とを見る見かたなのである。
 これはパウロのやせ我慢でもなければ、幻想でもない。あるいはつらい現実から逃避するためのごまかしでもない。先にも見たように、これは彼が精魂かたむけて聖書を読み込んだすえの結論なのである。
 つまりこれは、パウロがみずから導き出した結論ではない。神がそのように結論しておられるのである。神の約束なのである。だからこそ信頼するに足るのである。
 このみ言葉の約束の確かさは人にではなく、この世にでもなく、神にある。それゆえにわたしたちも、パウロと同じように語ることができる。パウロと同じように生きることができる。いかなる時にも喜び、いかなる境遇にあっても希望をもって歩むことができる。それは人間の強さのゆえではない。神のみ言葉の確かさに支えられることによって、人は強くされるのである。 
               (2008.9.17 祈祷会)