ローマの信徒への手紙を読む(第94回)

94 終わりの栄光(3)

 現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、
取るに足りないとわたしは思います。

(ローマの信徒への手紙8章18節)

 現在の苦しみは、将来の栄光に比べるなら、取るに足りない。これは神の約束であるゆえに、信頼に足る。それゆえにパウロもこのみ言葉の約束に信頼して生きた。パウロは福音をのべ伝えたがために囚人として鎖につながれ、死と隣り合わせることしばしばであった。そのような、この世的には絶望的な状況にあっても、彼は彼の教会の信徒たちに喜びなさい、わたしと同じようにキリストにあって喜びなさいと語り続けた。彼はいかなるときにも希望を失うことがなかった。それは彼が強い人であったからではない。神のみ言葉の約束が彼を支えていたからである。
 ところである集会の席で、講師の先生が参加者たちにこう問いかけたことがある。あなたがたはイエス・キリストがわたしのために十字架に死なれ、復活されたことを信じているでしょう。けれども、それと同じようにイエス・キリストの再臨を信じていますか。キリストが終わりの日にふたたび来られるということを本気になって信じていますか。
 イエス・キリストの再臨を、最後の審判を、そして万物の贖い、教会の贖い、新しい天と地の到来という聖書の使信を本気になって信じること。この神の約束をまちがいのない約束として信じ、待ち望むこと。これが終末信仰の出発点である。「マラナ・タ」、主よ来て下さい−この信仰は、初代教会から現代の教会にいたるまで、そして世の終わりのときまで、教会の切なる願い、また祈りであり続ける。この再臨を待ち望む信仰がわたしたちのものになるならば、わたしたちの信仰は確かに変わってくるであろう。

 終末論は、この世からの逃避をうながすものではない。目の前の苦しみから逃れることを教えるものではない。むしろこの罪の世界、贖いを待ち望んでうめき苦しむこの世界に、なお一時的に残る陣痛のような苦しみを経て、ついに栄光にいたるのだということを教えるものである。
 そこでわたしたちの生きかたは確かに変えられていくであろう。この世界の有様が肉の目にはどのようにうつろうとも、わたしたちは神の約束にあって希望をもつことができる。罪の支配とたたかうことができる。わたしたちの生きる場所を聖所とするために労し、働くことができる。
 この世的な希望はやがては消え失せ、朽ち果てるであろう。けれども神にある希望はいかなるときにも揺らぐことはない。いまわのきわまでわたしたちの命と人生とを支え続ける。キリストを信じる者の歩みの力強さは、この神の約束を信じ、待ち望む姿勢から来るものなのである。

 パウロの生涯を支え、彼の生きる力の源となっていたのも、神が彼に用意しておられる将来の栄光への希望であった。彼の使徒としての生涯は苦難の連続であったが、この終わりの日の希望にくらべるならば、現在の苦しみはあってなきがごときものであった。
 しかしパウロといえども、その栄光を目のあたりにすることをゆるされていたわけではなかった。彼は信仰によってこれを仰ぎ望んでいたのであった。将来の栄光を前もって見ることはできない。これを見ることをゆるされるのは、世の終わりである。再臨のキリストにまみえるときである。そのときに見せていただければよいのである。わたしたちの場合も、事情は同じである。
 ただ、神はすでにこの地上にあって、信じる者たちに終わりの栄光の前味を味わわせてくださる。それは主の日の礼拝である。今礼拝をともにささげている、ここに神がおられる。ここで神がわたしたちとともにいてくださり、ここでわたしたちはわたしたちのために十字架の血潮を流し、復活されたイエス・キリストにお会いする。そしてキリストのみ霊を分け与えられて、み霊に導かれつつ歩む。
これが将来の栄光の前味であり、将来受け継ぐべき財産の前払い金なのである。

 このように、すでに今この地上において与えられている栄光と祝福の大きさから、わたしたちは将来の栄光の大きさ、すばらしさをおしはかることができる。現在の苦しみの中でも、わたしたちは主の日ごとに集まり、インマヌエルの祝福を味わう。そして、おのおのが将来与えられる栄光の確かさをともに確かめあうことができる。そうであるからこそ、わたしたちはどのような苦難にも打ち負かされることはないのである。いかなるときにも望みを失わず、前を向いて歩んでいけるのである。     (2008.9.24 祈祷会)