ローマの信徒への手紙を読む(第96回)

96 陣痛(2)

 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、
服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、
神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、
わたしたちは知っています。

(ローマの信徒への手紙8章19〜22節)

「神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた/お前のゆえに、土は呪われるものとなった。/お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。/お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に」(創世記3:17〜18)
 被造物が虚無に服しているのは、塵に返るべき、滅びるべき者と定められ、そして今日にいたるまでうめき苦しんでいるのは、人間の罪の結果なのだとパウロは語る。
 わたしたちはこのパウロの言葉を深刻に受け止める。人が神のもとを背き去り、みずからを神の座に着かせ、あの「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」との神のご命令を忘れてみずからの思いと欲望のままに被造物を支配し、利用しようとくわだてたときに、さまざまな環境破壊や公害の問題が起こってきた。そのことによって多くの人々の命が奪われ、おびただしい被造物を損ねたことは現実の問題なのである。パウロがここで語っている事柄は言葉だけのことではない。まさに神のみこころに背いた人間の罪が、被造物のうめきと苦しみとを生じさせているのである。

 あるジャーナリストは、戦後の日本社会の特徴としてふたつのことを挙げることができると語っている。ひとつはもっぱら物質的な幸福を求め続けてきた、人間や社会の幸、不幸ということをもっぱら経済的豊かさというところではかってきたということ。もうひとつは個人主義的な考え方が広く蔓延するようになったということである。
 そしてこのふたつのことが混じり合うときには、個人主義的な幸福感というものに結びついていく、たとえばわたしが豊かであるなら遠い国で戦争が起こっていてもかまわない、遠い地域で差別や貧困に苦しむ人があってもかまわない、わたしが便利な生活をしていればわたしとかかわりのない場所で環境破壊が進んでもかまわない、そのような考え方が相当根深く、戦後の日本社会に根づいてしまったのではないかというのである。
 わたしたちもそのような社会のただ中に生きているのだとすれば、わたしたちの信仰生活ということから考えても、聖書の終末論をしっかりと身につけていなければならないと思う。前回も見たように、聖書の終末論はただ個人的な局面にのみとどまるものではない。このわたしが救われることがすべてだというのではない。つまり被造物のうめきの問題を考えることもわたしたちの信仰であり、わたしたちの終末論である。
 このことは聖書の終末論を理解する上できわめて大切な点なのである。そしてこの信仰は、わたしたちの地上における生きかたを確実に変えていくのである。変えずにはおかないのである。

 さてしかし、被造物にも希望はある。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」(20〜21)
 被造物が虚無に服しているのは、被造物自身の意志によるものではない。神がこのことをみこころとなさったのである。つまり創造の冠である人間との、連帯責任とも言える深い結びつきの中に被造物を置かれたのは神ご自身である。そして、まさにそのように神が被造物と人間とを運命共同体のごときものとなさったからこそ、被造物には希望があるのである。
 なぜなら、神はアダムにあって罪におちた人類を救おうとなさったからである。深い憐れみをもって罪人を贖い、ふたたび死から命へと導き返そうとなさったからである。そのために、神はみ子イエス・キリストを十字架につけてよみがえらせたもうたのである。人間と被造物とが深い結びつきの中に置かれている以上、イエス・キリストの救いは被造物にとっても決して無関係ではないはずである。そこに被造物の希望がある。

(2008.10.8 祈祷会)