ローマの信徒への手紙を読む(第97回)

97 陣痛(3)

 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、
服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、
神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、
共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

(ローマの信徒への手紙8章19〜22節)

被造物を創造の冠である人間との、連帯責任とも言える深い結びつきの中に置かれたのは神ご自身である。そのように神が被造物と人間とを運命共同体のごときものとなさったからこそ、被造物には希望がある。神はアダムにあって罪におちた人類を救おうとなさった。深い憐れみをもって罪人を贖い、ふたたび死から命へと導き返そうとなさるために、神はみ子イエス・キリストを十字架につけてよみがえらせたもうた。人間と被造物とが深い結びつきの中に置かれている以上、イエス・キリストの救いは被造物にとっても決して無関係ではないはずである。そこに被造物の希望があるのである。
 だからこそ「被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」(19)のである。神の子たち、すなわちイエス・キリストの十字架によって罪贖われ、イエス・キリストとともに新しい人として復活し、イエス・キリストのみ霊に導かれて生きる者たちの現れは、まさに被造物たちにとっては彼ら自身が滅びへの隷属からときはなたれることの保証となるのである。
 そして被造物たちもまた、現在の苦しみは将来の栄光に比べるならば取るに足りないものである(18)ことを知るのである。それは終わりの日の新しい天と地の到来までの一時的な陣痛にすぎないことを知るのである。

 はじめに神は天地万物をきわめてよいものとして造られた。そして終わりの日には再臨のキリストをとおして天と地を新しくされる。この新しい天と地は、あのきわめてよかった天地創造の回復でもあるのである。回復されるのは、新しくされるのは、人間だけではない。人間だけではこの地は成り立たない。新しい天と地にはあらゆる被造物も含まれている。被造物もまたうめき苦しみつつ、希望をもってその日を待ち望んでいるのである。
 いわゆる戦後の高度経済成長の時代と、公害問題の深刻化の時代を経てエコロジー、環境保護の問題が徐々に世界的な規模で考えられるようになってきた。しかしわたしたちはいわゆるエコロジーの視点とはまた別に、聖書の視点すなわち創造の冠たる人間が神のみこころに従って被造物を統治するというあの創造のおりの視点から、神が造られた自然と向き合い、すべての命と向き合っていくことを考えねばならないであろう。

 神の子らであるわたしたちは、今すでに神の奥義、隠された奥義を知っている。
 それはここでパウロが語っている三つのことである。第一に、被造物はほんらい神の栄光を照り返してあるべきものとして、きわめてよく造られているということである。
 第二に、人の罪によって被造物も呪われ、虚無に服することとなったということである。これは決して被造物のほんらいのすがた、ほんらいの命のかたちではないのである。
 そして第三に、神が罪におちた人をイエス・キリストによって贖い、救いたもうたことが、被造物が虚無と滅びからときはなたれる保証でもあるということである。それゆえに被造物もまた一時の、陣痛のような苦しみの中で、栄光の時を切に待ち望んでいるのである。
 そのような奥義を聖書をとおして知らされた神の子たちは、そのような時をいかに生きるべきであろうか。今被造物のうめきに取り囲まれながら、さらに被造物の切なる希望に寄り添いながら、どのように生きるべきであろうか。あらためて問われる思いがする。
 けれどもひとつ確かなことは、ともかくもこのことを知る時に、わたしたちの信仰は変わってくるのだということである。わたしたちの、この地上を生きる姿勢が変えられていくのだということである。
    さらに、そのような神の子たちの信仰が、この世界をつくりかえていくのだということである。神が終わりの日に新しい天と新しい地を完成させてくださる。そのみわざに今わたしたちも信仰をもって、希望をもって参与し、仕え、用いられていくのである。 

(2008.10.15 祈祷会)