ローマの信徒への手紙を読む(第98回)

98 忍耐と希望(1)

 被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、
神の子とされること、つまり、体の贖われるこ とを、
心の中でうめきながら待ち望んでいます。
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。
現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
(ローマの信徒への手紙8章23〜25節)

 先の19節以下では、パウロは被造物のうめきと、終わりの日の贖いを待ち望む被造物の切なる希望について述べていた。
 しかし22節以下では、うめきつつ終わりの日を待ち望んでいるのは被造物だけではなく、イエス・キリストを信じて生きる神の子たちもそうなのだということが論じられる。
 聖書は世の終わりにイエス・キリストがふたたび世に来たり、最後の審判をなさり、古い天と地があらためられて新しい天と地が到来すること、そのようにして神の国すなわち神の恵みの支配が完全に実現することを約束している。その日にこそ始祖アダム以来この世界を覆っていた罪と死の支配が完全にうちやぶられ、はじめに神がきわめてよいものとして創造されたあのよき秩序があらゆる被造物において回復される。終わりの日にこそよきことのきわみがもたらされるのである。
 さらに、神の子らの救いも終わりの日にこそ成就する。使徒信条に告白されるように、終わりの日にこそ信者は体のよみがえりと永遠の命の祝福に入れられる。パウロが23節に言う「体の贖い」の祝福、すなわち霊と体とをもって造られた人間が復活の新しい体を与えられることにより霊と体の双方において文字通り神の似姿として回復される祝福は、神が終わりの日にこそ用意してくださっている祝福である。まことにおそれ多いことだが、その日わたしたちの人間性はイエス・キリストが取られた人性に合わせられるのである。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3:21)

わたしたちの卑しい体がキリストの栄光の体と同じかたちに変えられる。これこそが祝福のきわみである。
 しかしこれらのすばらしい祝福は、あくまでも終わりの日に実現する祝福である。つまり今はまだ隠されている祝福である。
 それゆえわたしたちは今この祝福を見ることはできない。これにともなう喜びを今味わいつくすことはできない。今完全に見ることができるのであれば、それは終わりの日の祝福ということにはならない。今完全に手にすることができるのであれば、それを手にした瞬間からもう約束ではなくなってしまう。そしてその瞬間に希望は消え失せ、わたしたちは切に待ち望むことをやめるであろう。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(23〜25)
 そのように、終わりの日の祝福を今ここですべて見たいと願っても、それは不可能なことである。神は終わりの日の祝福を、終わりの日の祝福であるがゆえに、その日まで取っておかれる。したがってわたしたちはこの地上では、それを待ち望むことで満足しなければならない。

 けれどもこの祝福はその日が来たならかならず実現し、成就する。神がなさることである。これほど信頼に足る約束はない。それゆえわたしたちはその日の来るのを待ち望む。再臨のキリストをひたすらに待ち望む。その日がいつなのかはわたしたちには知り得ないことである。神のみがご存じである。けれども主ご自身が「然り、わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)と仰せになっているゆえに、この約束は確かである。
 この点から言うなら、イエス・キリストを信じて生きるとは、希望に生きることだと言うことができる。信仰と希望とがたがいに深く結びついているのである。信仰とはすなわち希望であると言ってもよいのである。信仰に生きていない人はすぐに絶望してしまう。しかしイエス・キリストを信じて生きる人は、どんなときにも失望することはない。なぜなら見えるところにしたがって生きているのではないからである。見えないものを待ち望んで生きているからである。 

                          (2008.10.29 祈祷会)