ローマの信徒への手紙を読む(第99回)

99 忍耐と希望(2)

 被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、
神の子とされること、つまり、体の贖われることを、
心の中でうめきながら待ち望んでいます。
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。
現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
(ローマの信徒への手紙8章23〜25節)

 イエス・キリストを信じて生きるとは、希望に生きることだと言うことができる。信仰と希望とはたがいに深く結び合っているのである。信仰とはすなわち希望であると言ってもよいのである。信仰に生きていない人はすぐに絶望してしまう。しかしイエス・キリストを信じて生きる人は、どんなときにも失望することはない。なぜなら見えるところにしたがって生きているのではなく、見えないものを待ち望んで生きているからである。
  わたしたちの目に見えているものは何か。今なおやむことのない戦争や暴力、争いや差別である。冷え切った人々の心であり、無実の人々の報われない死であり、しばしば裏切られる正義である。さらに、人間の罪におかされてうめく自然であり、被造物たちである。
    そして、今なおうめきつつ贖いを待ちこがれる、わたしたちのこの卑しい体である。今なおサタンはわたしたちのこの体を誘惑し、神から引き離して自分の手の中に置こうとする。そうした中でわたしたち自身もしばしば「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(7:24)と叫ばねばならない。わたしたちはおのおの、この体をもって生きている。この体において誘惑され、悲しみ、苦しみ、うめく。この卑しい体がイエス・キリストの栄光の体に似せられるなどということがあろうかとの思いにかられることもたびたびなのである。

しかしわたしたちは、そのような思いをうしろにして、希望によって生きる。この希望がわたしたちを救うのである。
   そして神がわたしたちに授けてくださった知恵は、見えるところに従って歩まず、見えない約束に従って歩むという知恵である。今目の前にある現実をわたしたちにおけるすべてだとは思わない、そうではなく神が、まだ見えないけれども、まだ隠しておられるけれども、すでにわたしたちのために用意していてくださる、そして終わりの日にあますところなく与えられる祝福を望み見て生きるということである。
   これは現実から目をそむけて生きるということではない。幻想を抱いて生きるということでもない。目にうつる現実をまっすぐに見つめながら、しかしまだ見えないけれどもやがて現実となる神の恵みの支配を霊の目で見ることによって、見える現実に勝利していくということである。
    ところでこのように見えないものを希望して、待ち望んで生きるということは、根拠もなくそのようにするということではない。神は終わりの日の祝福が確かなものであることをわたしたちに確信させてくださるために、それを前もって保証するものを今この地上で与えてくださってもいる。

すなわちイエス・キリストは、すでに一度来たりたもうたのである。そして十字架に死に、復活したもうたのである。これによってわたしたちは罪の赦しと永遠の命の恵みを今すでに受けていることを知っている。
    同時にわたしたちは、あの十字架の上ですでにイエス・キリストがサタンに勝利したもうたことを知っている。それゆえ今もサタンが働いているとしても、それはもはや敗戦処理のようなものにすぎないのだということを確かめることができる。
   さらに、約束のみ霊がくだりたまい、教会が生まれ、わたしたちは今すでにみ霊の初穂をいただいている。聖霊を持っている。み霊こそが終わりの日の命の祝福の前払い金である。なお全部は手に入れていないものの、将来必ず全部を手にする祝福の保証である。しばしばうめき声を発するわたしたちの卑しい体が、しかし一方では今すでに聖霊の住まいとされているのである。ここにわたしたちの待望の根拠がある。
   さらにまたわたしたちは、主の日ごとに神の国の前味としての礼拝にあずかっている。神がわたしたちとともにおられる。礼拝は終わりの日のインマヌエルの完成の、地上における先取りである。わたしたちが礼拝する者であることそのものが、終わりの日の祝福の確かさの保証なのである。 

(2008.11.5 祈祷会)