ローマの信徒への手紙を読む(第130回)

130 つまずきの石(3)

 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、
行いによって達せられるかのように、考えたからです。
彼らはつまずきの石につまずいたのです。
「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。
これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。
(9:32〜33)

 前回触れたヘンリ・ナウエンの『放蕩息子の帰郷』から、今少し思いをめぐらしてみたい。
 この書物の中で、ナウエンは自分を兄息子になぞらえている。自分が兄息子に似ているのは、自分自身も長男であり、幼い頃から権威ある人々の言葉には従順に従ってきたこと、大人になってからも多くの人々を教え導く立場に立ち続けてきた点であるとする。
 しかし、とナウエンは言う。兄息子の場合は、自分が失われた存在であるということに気づくことにおいて、弟息子よりもはるかにむずかしいのではないか。
 「放蕩息子のたとえ」の眼目は、実はこれは「二人の放蕩息子のたとえ」であるという点にある。つまり弟のみならず、兄も実は(家におりながら)家出をしていたのである。父のもとから失われていたのである。実際には、兄息子がはらんでいた問題は、彼が帰って来た弟のことを喜ぶことができず、父に向かってそれまでたまっていた不平不満をぶつけるまでは、表にあらわれることはなかった(彼は「従順な」息子だったのである)。しかし弟息子の帰郷をきっかけとして、兄もまた父の愛から遠ざかっていたのだということがはじめて明るみに出されたのである。

 兄の問題とはまさしく自分を義とすることの問題であり、自分がなし得たか、なし得なかったか、正しかったか正しくなかったか、そのことのみを問い続けてきたことの問題である。自分が正しくあろうとすることそのものは、悪いことではない。しかし自分もまた誤ることがあり得るのだということが覚えられず、義の神のみ前での冷静な自己吟味ということがないところでは、袋小路となるであろう。
 ナウエンは言う。自分も兄息子と同じで、外見上は非のうちどころのない、父に従順な息子であり、教皇や司教に忠実な司祭であり、有能な大学教授であり、多くの神学生たちや信徒たちの霊的な指導者である。けれども兄息子が弟の帰郷にともなって一気に爆発させたうらみ、つらみ、嫉妬、悪意、劣等感、人をさばく心−これらについてはまさに自分にも覚えがある。自分もまたこれらの感情と隣り合わせに生きている。そして父への従順と義務はいつしか重荷となり、父の家にいながらしばしば深い孤独感、無力感にさいなまれている−。
 そう語ったうえでナウエンは、このたとえは読む者を人生で最も困難な霊的選択のひとつに直面させるとしている。その選択とは、すべてをゆるす神の愛に信頼するかいなかの選択である。わたしの内にいる兄息子は、家に帰ることができるだろうか。父の家でくつろぎ、重荷をおろすことができるだろうか。わたしもまた弟息子のように光の中に入り、父のみ前にひざまずいてゆるしを乞い、父の手に抱かれる者となることができるだろうか。自己義認のむなしさと袋小路からときはなたれ、父の息子として独り立ちし、真の意味で回復された人間となることができるだろうか。

 この問いにナウエンは、自力では不可能だと答える。そしてヨハネによる福音書3章で、主イエスがファリサイ人ニコデモに対して語られたみ言葉を示すのである。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」
 キリストの弟子たちはみな霊的選択をうながされる。ゆるしの神に信頼するかいなかの選択である。それはたたかいでもある。父の家に帰っていくためのたたかい、真の自由と安息を得るためのたたかいである。
 このたたかいのために、わたしたちはどのように備えるべきであろうか。この世的な知恵を増し加えるべきであろうか。この世的な有能さを身につけるべきであろうか。ナウエンも言うように、これは自力によるたたかいではなく、霊のたたかいである。新しく生まれる。霊の人として生まれ変わる。そのために、天からの力が必要なのである。

このたたかいのために、神は教会に天からの恵みの手だてを備えてくださっている。み言葉、礼典、祈りである。これらが、わたしたちが真に神の子とされるために霊的たたかいをなすときに備えられる武器である。