ローマの信徒への手紙を読む(第173回)

173 平和に生きる(1)

 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
(ローマの信徒への手紙12章18節)

 平和の実現は、教会にとっても、国家にとっても、また世界にとっても実に重要な、また緊急の課題であることは言うまでもない。平和憲法を守るための取り組みが全国各地で展開され、教会やキリスト者たちもこれに加わっている。わたしたちの教派も、平和憲法を神がこの国に与えてくださった一般恩恵であると理解し、これを大切にしてきたのである。
 しかしその一方で、わたしたちはたんに憲法だけで平和の問題を語りきることはできないということをも覚えていなければならないであろう。つまり、わたしたちが平和を実現するためにまず聞くべきは神の言葉である。平和について聖書がどのように言っているのかということである。なぜなら(この世の声に聞くのではなく)神の器となり、神の言葉に聞き従い、神のみこころを行うときにこそ、わたしたちは平和を実現することができるからである。
 パウロは17節で言う。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」

 12章2節と同様、ここでも善とはたんに道徳的な次元を言うのではない。聖書においては善とは神のみこころにかなうこと、神のみこころを行うことである。パウロが言うようにわたしたちが神のみこころを行うように心がけるなら、その実りとして平和が実現するのである。

 イザヤ書2章3節以下を見たい。

「主の教えはシオンから

御言葉はエルサレムから出る。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず

もはや戦うことを学ばない。

ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」

 人間の知恵や力によっては平和は来ない。平和をつくり出すためには、主の山に登らなければならない。主なる神の教えに耳をかたむけねばならない。だからこそ世界中の民がシオンに集まってくる。そして主のみ言葉を聞いた者たちは剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す。敵を倒すための武器を、神の国を耕す道具に変える。そのようにして平和はもたらされるのである。
 ある神学者は次のように述べている−平和はいかにして達成されるのか。政治的な条約の積み重ねによってか。いろいろな国に国際資本を投じることによってか。そうではない。そうしたことによっては平和は来ない。なぜなら「平和」と「安全」とは別だからである。「安全」を求めるということは、相手に対する不信感を持つことであり、この不信感が戦争をひき起こすのである。安全を求めるということが自分自身を守ろうとすることであるのに対して、平和とは神の言葉にすべてをゆだねて生きることである。武器による戦いには勝利はない。神とともになされる戦いのみが勝利をおさめる。

 平和に生きるためには神の言葉を学び、神のみこころに聞き従うことである−わたしたちはまずこのことを心に刻んでおくべきである。平和ということは、何も戦争の廃止や世界的な平和の維持、民族間の争いや憎しみの除去といったことだけではない。争いや憎しみの支配する場所、それゆえにわたしたちが平和の使者となって遣わされていくべき場所はもっと身近なところにもある。家庭も職場も学び舎もそのような場所である。
 何よりもパウロがここでローマの信徒たちに、できれば、せめてあなたがたは平和に暮らしなさいと勧めているのは、教会の中にもときに争いや不和がしのび寄ることを示している。教会の内と外とを問わず、わたしたちはこの世のどのような場所においても平和をつくり出す幸いな者として召されているのである。そして、主のみ言葉に聞き従うのである。

(2010.7.14 祈祷会)