ローマの信徒への手紙を読む(第131回)

131 イスラエルの義(1)

 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、
この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、
神の義に従わなかったからです。

(10:2〜3)

 信仰ということを考えるとき、熱心さということは確かにひとつの基準となる。不熱心であるよりは熱心であるほうがよいとわたしたちも考える。とくに日本人には、その教えが真理かいなかということよりも、信心のありかたを重んじる傾向が強いと言われる。熱心に信じているなら、その神がどういう神かということはあまり問題ではないというような気分があるということである。
 しかし、信仰において最も大切な問題が、信じる「わたし」のありかた以上にその教えが真理かどうかというところにあることは言うまでもない。そのことこそが人の生と死、命と滅びに決定的にかかわるのである。いくら信仰熱心であっても、それが偶像礼拝や、あるいは異端の教えを信じていたのであるならば、意味はないのである。むしろその教えに熱心であればあるほど大きな危険がひそむということもあり得るのである。
 10章1節以下は、あらためてわたしたちにそのことを語り示している。信仰の熱心さとは何よりも真理を正しく知る知識にもとづく熱心さでなければならないのである。

  パウロは2〜3節でイスラエルについてこのように言う。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」
 パウロはイスラエルの熱心さについては十分に知り、また認めてもいる。イスラエルほど神の義を熱心に求めた民はほかになかったのである。それは歴史の証明するところでもある。
 けれども、実はそこにこそ問題があった。すなわち、この熱心さは正しい認識に基づくものではなかった(2)のである。それは具体的には神の義とはどのような義であるのかをほんとうには知らず、自分の義を求めようとしたということである。神の義を求めず、自分の義を求めると言うことは、結果的には神の義に従わないということになるのである。
 イスラエルの問題は律法主義の問題であった。律法主義は宗教的熱心の衣をまとってはいるが、つまりは宗教
的エゴイズムである。そこでの熱心は神をたたえる熱心ではなく、自分を満足させ、自分を称賛する熱心にすりかえられていく。それは結局神をしりぞけ、自分を神とする道に行きつくのである。ファリサイ人や律法学者たちは主イエスを十字架に追いやらずにはおれなかったのであり、ファリサイ派の学徒であった当時のパウロは教会を迫害せざるを得なかったのである。
 パウロが3節で、イスラエルは神の義に従わなかったとはっきり述べていることは見落とすことができない。つまり彼らが自分の義を求めたということはたんなるあやまちや不足といったものではなく、神の義の拒否であり、神の愛と憐れみの拒否であり、不信仰と不従順の罪であったのである。
だからこそイエス・キリストは彼らにとってつまずきの石、妨げの岩であったのである。

 信仰において最も大切なことは、真理を正しく知ることである。そのためには、真理の神ご自身に対する謙遜と従順が求められる。ある神学者が神学とは何かという問いに答えて、神学とは謙遜の学であると述べている。もちろんそれは道徳的な徳目としての謙遜ということではない。神の前にへりくだる、身を低くするということである。それは神が語られたとおりに聞く、神が定められたとおりに学ぶということにほかならない。真理を知るためには、自己流であってはならないのである。
 教会のいとなみにとって神学は不可欠である。神学とは神の言葉の真理を学ぶことであり、それゆえかぎられた人々だけのものではなく、すべてのキリスト者が「神学者」である。そしてすこやかな信仰の知識、認識ということとすこやかな神学のいとなみということとはひとつのことである。

  教会が神学することは、自分の義を求めることではない。神学とは神の前にいよいよ謙遜にされていくいとなみであり、信仰によって義とされ、神の恵みと憐れみに生かされて生きる者たちのいとなみなのである。