ローマの信徒への手紙を読む(第163回)

163 賜物(4)

 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、
奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。
施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、
慈善を行う人は快く行いなさい。
(ローマの信徒への手紙12章6〜8節)

 これまで見てきたように、12章6節以下には教会のかしらなるイエス・キリストが教会に備えておられる聖霊の賜物が列挙されていた。これらの賜物は、もちろんばらばらに働くのではない。教会をひとつの体とするために働き合っている。たがいにたがいを生かし合い、補い合って、かしらなるキリストにひとつに結ばれるのである。
 そのときにわきまえられるべきことは、聖霊の賜物が与えられていない者はだれひとりとしてないということである。ひとりひとりがキリストの体のかけがえのない部分であり、欠けてはならない存在なのである。ここで具体的に挙げられている賜物は預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善の七つである。しかしすでに見てきたように、これらの賜物はたがいにもう七等分されていて、職務領域が定まっており、それぞれの領分だけを果たしていればよいといった性格のものではない。おのおのの賜物は緊密に結び合い、また重なり合ってもいる(つまり、ひとりの人が複数の賜物を用いているということもある)。そしておのおのたがいに異なっていながら、かしらなるキリストにあって美しい調和と統一とを保っている。この七つの賜物は現実にはふたつの務めにたばねることができるであろう。キリストのみ言葉に仕える務めと、隣人に仕える務めのふたつである。

 実は教会につらなって生きる者たちは、ひとりの例外もなくだれもがこの務めを担っている。わたしたちはたがいに異なる賜物をキリストから与えられ、これを用い、生かし合いつつ、このふたつの務めをともに担い合っているのである。
 それはある場合には、はっきりと目に見えるかたちをとるであろう。たとえば牧師が礼拝で説教を語ることは、預言の賜物を用いるということになるであろう。
 しかしある場合には、たいへんひそやかに、目立たないしかたで聖霊の賜物が用いられるということも、教会という場所にあってはごく日常的に起こっているのである。教会役員としての務めを担うとか、目に見える奉仕分担を担うといったこととは別に、日常的に魂の配慮がなされていることがある。人生の年輪を重ね、さまざまな試練を信仰によって耐え抜いてきた人々の信仰の知恵が、ひそやかなかたちではあっても確かに教会に息づいており、教会を生かしているということが当たり前のようにして起こっているのである。だれの目にも触れないけれども、ひとりの信徒が他の信徒のために心を注ぎ出して祈り、主にある適切な牧会的配慮をなしているということも起こっているのである。聖霊はひそやかなしかたでも働きたもう。そうした聖霊の働かれかたということをわたしたちはいつも覚えているべきであるし、あるいはそのような聖霊の火を決して消すことがあってはならないのである。

 たがいに聖霊の賜物をささげ合うということについて、忘れてはならないごく根本的な今ひとつのことを確かめておきたい。すでにこれまでのところで学んだことの確認である。すなわちパウロが12章1節以下で、繰り返し三度も「神の憐れみ」あるいは「神から与えられた恵み」という言葉を繰り返している(1、3、6)という事実である。
 わたしたちはただイエス・キリストの恵みによって救いを受け、キリストの憐れみによって今日を、今このときを生かされている。そして今わたしたちに与えられている聖霊の賜物も、文字通り贈られたもの、受けたものである。みずから得たものは何ひとつとしてないのである。主イエスが恵みによって、教会にさまざまな賜物を備えてくださっていることに感謝したい。キリストを愛し、おたがいを愛することのために、またわたしたちがかしらなるキリストに合わせられていくことのために、これらの賜物をよく用いていきたい。キリストご自身のみ姿を映くっきりと、忠実に映し出す教会となることを祈り求め、そのためにおのおのみ言葉の修練に励んでいきたい。

                           (2010.4.28 祈祷会)