ローマの信徒への手紙を読む(第65回)

65           自由(1)

 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、
律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
(ローマの信徒への手紙7章1節)

 7章と8章とは、信仰による自由の問題を扱っている。7章ではキリストを信じる者が律法の支配と束縛からときはなたれていることが論じられ、8章ではそのように律法の支配からときはなたれたキリスト者は今や聖霊の自由のもとにおのおのの命を生かされているのだということが論じられる。
 7章1〜6節がひとつの段落である。ここは7、8章全体の前置きともいうべきところで、ここではパウロは律法からの解放ということを結婚のたとえを用いつつ説き明かしていく。

 まずわたしたちは、ここでのパウロの言葉が、生まれながらの人間は律法に縛られており、それゆえ真の自由を失っているのだということを前提として語られていることを理解したい。それはちょうど、結婚関係において妻が夫に束縛され、支配されているのに似ている。
 今でこそ法律上、結婚は両性の合意のもとに成立し、夫と妻は平等であり、結婚関係はおたがいの愛にもとづく人格的関係であるとされている。しかしこの当時は結婚によって夫は文字通り妻を支配し、あるいは所有すると考えられていた。そのことから言えば律法に縛られ、支配されて自由を失っている人間のすがたを描く上で、結婚のたとえはローマの信徒たちにとってたいへんわかりやすいものであったと思われる。ともあれ当時のローマでは、結婚によって妻は夫に対する絶対服従を強いられ、自由を失っていた。
 では、妻がふたたび自由の身となるのはいつのことであろうか。夫の死のときである。結婚関係はおたがいのどちらかが生きている間だけ成り立つものだからである。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結びつけていた律法から解放されるのです」(2)「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(3) このように、結婚関係はどちらか一方の死によって終わりを告げる。そして、死によって終わるというこのことが、人が律法の支配からときはなたれる事情とまさしく似ているのである。

 そこで、わたしたちがわきまえねばならないのは、第一に律法が人を支配するとはどういうことなのかということである。そして第二に、人が律法にあって死ぬとはどのような事態を指して言われているのかということである。
 まず確認しておくべきことは、律法が人を支配する、横暴な夫のようにがんじがらめに束縛すると言われているのだが、実は律法それ自身には決して責められるところはないのである。
 律法は神のみ言葉である。律法自身は聖なるもの、よきものである。12節でパウロは言う。「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そしてよいものです」
 このように律法そのものは聖なるもの、正しいもの、よきものであるのに、なぜ律法が人を支配し、縛り、裁き、死に追いやっていくことになるのだろうか。
 すべては罪の問題である。生まれながらの人間が、始祖アダムにあって罪の中に置かれているという事実によるのである。
 律法そのものは聖なるもの、正しいものである。それゆえ常に聖なるもの、正しいものとして働く。しかし律法が聖なるものであるからこそ、正しいものであるからこそ、律法は第一のアダムにある生来の人間、罪の奴隷である古き人に対しては、その罪を明るみに出し、その不義を指摘し、罪への正しい報い、正しい裁きを宣告せずにはおかないのである。

 つまり聖なる律法は、人にみずからが罪人であるという事実を自覚させずにはおかないのである。パウロは7節で、律法がなければわたしは罪を知らなかったでしょうと語っている。まさに律法を知らなければ、人は自分が罪人であることにさえ気づかなかったであろう。おのが罪の姿を知らされることは、生まれながらのわたしたちにとっては決して愉快なことではないかもしれない。しかし律法が罪の自覚を与えてくれることは、実に感謝すべきことなのである。                          (2008.2.6 祈祷会)