ローマの信徒への手紙を読む(第167回)

167 兄弟愛(4)

 愛には偽りがあってはなりません。
悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
(ローマの信徒への手紙12章9〜10節)

 前回は10節前半の「兄弟愛をもって互いに愛し」とのみ言葉を見たが、今回は「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」について見たい。
 「尊敬をもって」はもちろんこの世的、人間的な意味における尊敬ではなく、キリストにあって互いに尊敬を払い合うということである。「互いに相手を優れた者と思」うところで築かれる交わりも、すばらしい交わりであると言えよう。この世にあっては、とかく目に見えるところでの序列や比較が幅をきかせている。また、人々はみな自分が他者よりも優れた者だと考えている。そういう現実からすれば、相手を自分よりも優れた者と見なすことができることそのものが、驚くべきことである。

 イエス・キリストの福音による自由と解放の恵みにあずかったわたしたちは、この世のあらゆるしがらみから自由である。地位や名誉、富や学歴といった見えるものによって優劣をつけたり、比較し合ったりといった不自由から、わたしたちはときはなたれている。そしてこのキリストの自由に生かされている者たちは、おのずから互いに仕え合う。主イエスが弟子たちを愛し、彼らの足をみずから洗い、彼らに仕えられたように、わたしたちもキリストにあって仕え合うのである。
 相手を自分よりも優れた者とするということは、相手に取り柄があるとか、能力があるとか、そういうことによるのではない。神がこの人をキリストにあって、自分が仕えるべき隣人として与えてくださった、それゆえに仕えるということである。イエス・キリストが彼のためにご自身の命をささげたもうた、彼のためにも十字架に死んでくださった、彼の命はそれほどに価値のある、尊い命だからである。
 キリストの血潮によって贖われたひとりひとりは、だれもがキリストのかたちであり、キリストのすばらしさを映し出して生きている。それゆえにまさしく、主の教会にあっては互いに相手を優れた者と思い、相手に仕えて生きることこそがふさわしいのである。

 ひとつの群がひとつの体の各部分のように一致を保ち、助け合い補い合いながら生きているとすれば、それは考えてみるならば不思議なことである。奇跡のようなことである。わたしたちがそのような一致のもとに生きているとするなら、それはわたしたち自身の思いや能力によるのではない。キリストのみ霊による一致なのである。もしも聖霊がわたしたちのところに来てくださらなかったなら、わたしたちは最後の晩餐の席上でこの中でだれがちばん偉いかと論じ合っていた弟子たちのように、ばらならであったことであろう。
 しかし最後の晩餐の席上でそのように論じ合っていた弟子たちが復活の主と出会い、聖霊を受けたときにどう変わったのか。聖霊の絆によってひとつとされたのである。そして主の体、聖霊の住みたもう宮なる教会が誕生したのである。
 ある神学者はペンテコステの出来事について、以下のように述べている。「聖霊を受けることによって、弟子たちにあることが起こった。彼らは自分が何者であるかを知った。彼らは深い深いところに引き降ろされたのだ。以前にはだれひとりとして経験したこともないようなへりくだりの中へと引き降ろされたのだ。その深い深いところで彼らは知った。神のもとでは、だれも他者に優ってはいないのだということを。また、そこには何の差別もないのだということを。まさしく聖霊を受けた者たちの一致は、貧しさの一致であり、ゼロの一点における一致である」
 教会に生きる者たちの一致は貧しさの一致であり、ゼロの一点における一致である。なぜならわたしたちはキリストとともに十字架につけられ、一度死んで葬られたからである。死んだということはすべてを失ったということ、ゼロとなったということである。そうでなければキリストとともに死んだというのは嘘である。

 しかしわたしたちは、キリストとともに新しい命に復活した。だからこそ、あり余る聖霊の賜物に恵まれているのである。キリストにある愛の交わりの豊かさを、あふれるばかりに受けているのである。このことこそが、互いに相手を優れた者と思い、互いに愛し合い、仕え合って生きる教会の愛の交わりの原点なのである。                                 (2010.5.26 祈祷会)