ローマの信徒への手紙を読む(第126回)

126 憐れみ(4)

 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、
異邦人の中からも召し出してくださいました。
ホセアの書にも、次のように述べられています。
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
(ローマの信徒への手紙9章25、26節)

 神が背信のイスラエルをあえてご自身の民として選びたもうたとすれば、神は不義なる方ということにならないか。この問いに対しては、以下のように答えねばならない−イスラエルであろうと異邦人であろうと、始祖アダムにあってわたしたちはひとり残らず生まれながらに罪人であり、ひとり残らず怒りの子であった。にもかかわらず今は神の憐れみを受けている。なぜなら罪人を無償で義とする神の憐れみがわたしたちの上にも注がれたゆえに−。
 聖書は、すべての人がアダムにあって罪におち、それゆえに罪の報酬としての死を刈り取るべきであると告げる。ということは、すべての人間に罪の正当な報いである死と滅びを分け与えることこそが神の義であったはずである。

 にもかかわらず神はひとり子を遣わし、罪なきひとり子に罪の報酬を支払わせることによって罪人を赦し、罪あるままで義としたもうた。そのようにしてみ子の十字架のもとにこそ、神の愛と神の義がふたつながら貫きとおされた。わたしたちはこの世の論理の枠の中で神の義をはかることをやめて、この神の愛と憐れみにまっすぐに目を注ぐべきである。
 パウロも24節でこのように語っている。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけではなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」
 ここでユダヤ人と異邦人という区別はのりこえられるのである。生れながらの怒りの器をイエス・キリストの贖いの恵みによって憐れみの器に造りかえる神のくすしき恵みは、ユダヤ人と異邦人の双方に注がれたのである。
 そのことの鮮やかな証明をどこに見出すことができるのか。もちろん、キリストの体なる教会においてである。つまり24節の「憐れみの器」とは、地上の教会のことなのである。

イエス・キリストにある新しい契約によって、救いは旧約の選びの民イスラエルのみならず、異邦人たちにも及ぶこととなった。エルサレムにも教会が生まれた(ペンテコステの日、約束のみ霊はエルサレムにいた弟子たちにくだりたもうた)。アンティオキアをはじめ、異邦人の町々にも教会がたてられた。
    ローマ教会も最初はローマ在住のユダヤ人信徒たちがメンバーであったが、後には異邦人信徒の数のほうが多くなったと伝えられる。つまりユダヤ人、異邦人の混成教会だったわけである。かつては怒りの器であり、今は憐れみの器とされたという点で、教会員たちに区別はなかったのである。

 さてパウロは、そのようにユダヤ人にも異邦人にもひとしく神の(人知をこえた、驚くべき)憐れみが注がれたことを、ここでも聖書そのものを引きつつ証明している。
 まず異邦人たちに対する神の憐れみを述べるにさいしては、ホセア書が引用される。9章25節はホセア書2章25節、また26節はホセア書2章1節(b)からの引用である。
 預言者ホセアは姦淫の罪を犯して自分のもとを離れ去っていった妻ゴメルを赦し、身銭を切って彼女を買い戻し、ふたたび自分の妻とする。ゴメルの姦淫の罪は、まことの神を裏切って偶像の神々のもとに走ったイスラエルの罪を象徴している。そしてホセアがゴメルを赦したことは、神が背信のイスラエルを赦し、ふたたびご自身の民とされたことをあらわしている。ロ・アンミ−わが民でない者をアンミ−わが民としたもう神の憐れみがここに語られているのである。

 そのようにホセア書のメッセージは、本来はイスラエルに向けて語られたものであるが、パウロはここではこれを異邦人に向けて語られたみ言葉として語り直しているのである。ロ・アンミ−わが民でない者を異邦人と解釈して読んで、これをイエス・キリストにあって神がアンミ−わが民とされたと読んだとしても読み得るみ言葉だからである。

                           (2009.6.10 祈祷会)