茶道の精神

茶道のするうえで重要と思われる精神を六つのキーワードでまとめてみました。



おもてなしの心

「茶道は何を学べるのですか」と聞かれたら多くの人はこう答えるのではないでしょうか。 「茶道とはおもてなしの心なのです」と。

一般的に言って、茶道でまずはじめに習うのは作法です。おそらく書や焼物から教わる人はあまりいないでしょう。 数限りなくある作法、それらは一つ一つ意味があるのです。それらの根底にあるもの、それはとりもなおさず「おもてなしの心」と言えます。 自分を下げ、客には思いつく限りの丁寧さで対応します。

茶会で亭主が茶を点てる行為、これを点前(てまえ)と呼びますが、なぜそれが必要なのか。それは本来裏方でする作業を見せてまでも、入れたばかりの熱いお茶をお客様に差し上げるため、また何もやましい事はしていないという証明のために道具を客の目の前で清めるところから始まります。

茶道はおもてなしの心です。 一杯の茶を差し上げる。それだけのことであり、それを含んだ全てのことなのです。




侘び寂び(わびさび)

茶道の世界はよく「侘び寂び」と言われます。 この言葉を説明するのは、本当に難しいことです。

日本人と言うのは世界的に見ても珍しい"地味"を愛する一面を持っています。 もちろんゴージャスに憧れる側面もありますが、地味を愛する性格を究極まで突き詰めたものが茶道と言っても過言ではないでしょう。

侘び寂びは言ってしまえば「地味」です。ですがただ地味なわけではありません。 必要でないものを全て削ぎ落とした完璧なまでのシンプルさ。 自然を愛し、自然な姿を求めるありのままの心。 今在ることに感謝し、時の移ろいを肌で感じる姿勢。 虚飾を全て捨て去ってそこに残る清らかな美しさ、それが侘び寂びなのです。

侘び寂びの心は、本来日本人なら必ず持ち合わせているはずの精神です。 そしてそれは知るものではなく、感じ、覚えていくものなのです。




不完全美への傾倒

前述したとおり、日本人は地味を愛する少し珍しい性格を持っています。 豪華でないこと、華やかでないこと、完全でないことに美を見出したりするのです。

「花は盛りに月は隈なきを見るものかは」

例えばこの言葉。徒然草の一説です。「花は満開の状態、月は満月だけが本当に良いのだろうか、いや決してそうではない」と言う意味です。花が散りゆくときや月が欠けゆくときの儚さや切なさ、そういった感情もとても素敵なものです。

「花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春をみせばや」

藤原家隆の歌ですが、利休の茶の真髄としてよく引用されています。花は春にその美しさを開かせますが、冬の間だって懸命に生きているのです。完全な美しさを纏っていないときこそ命のきらめきを感じることが出来るのかもしれません。

そのように完全でないことの素晴らしさを日本人はよく理解しています。 茶道の世界では特にそれが如実に物語られています。 例えば茶道で使用される道具は地味なものも多いです。無造作に作られたものにこそ真の美しさがあるかのごとく。

一期一会(いちごいちえ)

茶道の世界と言えば「一期一会」。それは一般的によく知られていることです。 そして意味もよく知られているように、一度きりの出会いを大切にしなさいということです。

言ってしまえば簡単なものです。ですがこの言葉を理解したと思っている時はきっとまだ理解していない。全ての出会いに感謝と感動の念を持つようになって初めてこの言葉の大切さを知ることになるからです。

同じ客で同じ道具で同じ季節に茶会を開いたとしても、それでも二度と同じ会をすることは出来ない。常に今は今しかないのです。 交わした言葉、思った気持ち、垣間見た笑顔、そのときの移ろう空、吹いていた風。 それら全てを尊く愛しく思い、また一つ自分の人生の一部になっていく。

人は生きている限りを一期一会で過ごすのです。茶道はきっとそのことに気づかせてくれるでしょう。




和敬清寂(わけいせいじゃく)

茶道の精神を一言で表した利休の言葉です。 詫び茶の祖といわれる村田珠光が足利義政から茶の精神をたずねられたとき「謹敬静寂」と答えたのを、その志をついだ千利休が一字を改めて「和敬静寂」としました。この一句四文字の真意を体得し実践することが茶道の本分とされます。

前の二文字は茶事における主客相互の心得、後の二文字は茶庭、茶室、茶器に関する心得をあらわしています。
和・・・和合、調和、和楽の意。互いに楽しもうという心。
敬・・・他を敬愛する心。
清・・・清潔、清廉の義。まわりも自らも清らかでありなさいという教え。
寂・・・寂静、閑寂の意。要らないものを捨て去ることで生まれる。

意味を述べると簡単なものです。しかし多くの茶人がこの言葉を理解し実践するために道を歩み続けているのです。

茶禅一味(ちゃぜんいちみ)

茶道ではその精神の根幹に禅の教えを取り入れています。 村田珠光が一休禅師に参禅し悟道したことが始まりと言われています。遊芸に陥ってしまった茶の湯の世界を戒めるため、茶道の本質に禅の教えを見出したのです。 これにより画が主流だった掛物は墨蹟に代わり、鑑賞の対象だった道具もシンプルで詫びたものになり、「茶の湯」が精神的な教えをよりどころとする「茶道」に変わったのです。

茶道を習うことはすなわち禅の教えを学ぶことです。一杯のお茶、つまり日々の何気ないものの中にこそ仏が存在する、そういったことを珠光や利休は伝えたかったのかもしれません。





コラム 茶道は女性のもの?