(チリ対ペルー・ボリビアの)

パシフィック戦争とその影響


                                               協会理事 柳原 紀文

はじめに)

私は今年(2009年)の213日から2週間あまりチリを訪問した。

主としてイキケ、サンチャゴ、バルパライソ、プンタレナスを訪ねる旅だったが、特にイキケへは45年前の昭和39年(1964年)以来2度目で、このおよそ半世紀の間の町・人・物の変貌ぶりには目を見張るものがあった。 今回の旅ではチリの歴史を語る上で欠かせない「エスメラルダ号の海戦」の様子をつぶさに調べることができたし、 砂漠の中に分け入って念願のチリ硝石工場跡も見学し、砂漠のコスタジェーラ・デ・ラ・コスタ(沿岸山脈)の景色に圧倒されるなど、 チリとの縁あさからぬ私にとって深く心に刻まれるものとなった。

 

1章  パシフィック戦争の背景

 

チリは建国以来300年に亘りスペインの植民地支配が続くが、この300年は先住民インデオとの熾烈な戦いの歴史であった。 チリの中・南部住んでいたマプーチェやオナ族などとの戦争は悪質な風土病のように蔓延し、 国をあげて全ての知恵と資金を投入しなければならなかった。

 

その後、チリは1810年独立をしたが、直後内戦に突入し、 産みの苦しみを味合うことになる。1817年サン・マルチンの応援を得たベルナルド・オヒギンズ率いる独立部隊が、 アルゼンチンのメンドーサからアンデスを越えてチリに入り、所謂「チャカブコの戦い」に勝利して完全独立を果たした。

 

独立後チリは大統領制度を主体に統一国家として順調に発展し、 チリ経済も政治の安定に伴い大幅に改善していった。それと共に1830年に8百万人であった人口も、50年後には17百万人に増加した。人口の増加と共に「ロト」と呼ばれる教育が無い無産階級も増加し、 都市部からはみ出したそれらの人々が、鉱山業や砂漠の硝石産業のような過酷な労働に従事していった。       又、国の基盤である農業や製造業も順調に育成されたが、1830年頃銀鉱が発見されて銀の生産が始まり、 鉱山業がチリ経済を押し上げた。1850年頃を境に銀に代わって銅の生産量が増加し、 加えてグワノ(海鳥の糞)や硝石がアタカマ砂漠で産出し始めた。これら鉱山業の開発にはチリ資本も投入されたが、 その多くは外国からの資本で、特に外国資本の60%は英国からの投資であった。

 

チリ硝石の需要は軍備拡張に沸くヨーロッパが中心で、 特に英国への輸出が群を抜いていた。バルパライソに進出している英国の貿易商社やロンドンの金融業者が、 チリの鉱山業を重要視し、開発に必要な資金と技術を投入、その育成に協力した結果、チリの鉱業生産を支配するまでになっていた。

 

そもそもチリはペルーやボリビアと違い、300 年間のインデオとの戦いで醸成された強固な愛国心と独立心を持つ民族で、 インデオとの恐怖が取り除かれた独立後は全国民一致して、統一国家の制度確立を目指し、 経済の安定化に努力した。従って統一国家の完成度と言う意味では、ペルーやボリビヤと比べ一歩も二歩も先んじていた。

 

1870年当時、チリとボリビアの国境線はアントファガスタ市の南方約90キロ付近の南緯24度の線上に引いてあり、ボリビアとペルーの国境線はトコピージャの北方約5キロ付近の南緯22度の線上にあった。 硝石の産出はアタカマ砂漠のアントファガスタ市西方から始まり、徐々に北方に広がり出したが、 資金力と船積みが可能なチリが圧倒的に有利で、ボリビアの硝石生産量はチリの1割にも満たず、チリは生産を倍増させた。

 

 これに苦慮したボリビア政府は、チリの競争相手であるペルーからの要請もあり、 硝石1トンに対して10センタボの税金を追加する法律を発布した。 徴収に応じない会社はこれを接収し外国企業に売却することとし、さっそくチリの硝石工場を接収した。   チリは即座に軍隊をボリビアに進軍させ、18794月、ボリビアとペルーに宣戦布告をし、4年間の戦争が始まった。この時のチリ軍隊の軍服や装備は英国から購入したと言われている。

 

チリは歴史上唯一の外国との戦争を経験することになる。それは太平洋戦争(La Guerra del Pacifico)と呼ばれている。我々にとって紛らわしい呼び名ので、 これからはカタカナでパシフィック戦争と呼ぶことにする。この戦争は1879年から4年間に亘り、チリはペルーとボリビアを相手に戦った。

 

2章  パシフィック戦争(La Guerra del Pacifico

 

(1)イキケの海戦

 1879521日イキケ沖において、チリ側はアルトゥーロ・プラット艦長率いる戦艦エスメラルダ号と 副官リケルメ艦長のコバトンガ号2隻が、ペルー戦艦ミゲル・グラウ艦長率いるワスカル号と インデペンデンシア号の2隻と遭遇し、海戦となった。エスメラルダ号は1854年建造で3本マスト850トンの木造船で、 一方ペルーのワスカル号は排水量1000トンの鋼鉄船で、 丸天井つき回転砲座から主砲2門を持つ最新鋭の戦艦である。 

 イキケ港に係留していたエスメラルダ号のプラット艦長は、0715分僚船コバトンガ号から「敵船ワスカル号を発見」との第一報に接し、士官を集めてこう言った。 「この戦いはデスイグアル(同等ではない)が、チリ国旗を沈めるわけにはいかない。覚悟して奮闘せよ。」 プラット艦長はここで死を覚悟したものと思う。

ワスカル号が放った砲弾がエスメラルダ号船上で爆発して火災が発生し、 同時にワスカル号はエスメラルダ号の左舷艫に追突した。プラット艦長は部下に「敵船に切り込め」と命じ、 自らもサーベルを抜いて斬りこみ隊の先頭に立って、敵船ワスカル号に飛び乗り、 続いてプラット艦長の従卒兵も飛び乗った。それを知ったクラウ艦長は直ちにワスカル号をエスメラルダ号から引き離し、 それ以上の部下が飛び乗れないようにした。プラット艦長は敵艦上で従卒兵と二人きりで孤軍奮闘したが、 武運つたなく頭上から撃たれた一発の銃弾に倒れた。

クラウ艦長は自艦を再度エスメラルダ号に接舷して、 集中砲火を浴びせた上、エスメラルダ号を撃沈した。

一方チリ海軍のもう1隻の戦艦コバトンガ号は、ペルー海軍のもう1隻の戦艦インデペンシア号を座礁させ、砲撃の上沈没させた。

この海戦でチリ側は143名が戦死し、 生き残ったのはリケルメ副官を始め

68名に過ぎなかったが、この勝利でイキケ市を占領しチリ領土とした。

しかし、この海戦でワスカル号(ミゲル・クラウ艦長)はこの戦争の両国のシンボルとなった。

 

 





(2)             アンガモスの海戦

イキケ海戦の半年あまりの後の1879108日、チリは英国で建造した鋼鉄製戦艦コクラン号(ラトレ艦長) がアントファガスタ市の北方約60キロの地点にあるアンガモスの沖合いで、ペルー戦艦ワスカル号と遭遇し、 海戦となったが、この戦いに勝利し、ワスカル号を撃沈せずに拿捕した上、チリ国旗をかざしてバルパライソ港に曳航した。 この海戦でワスカル号のクラウ艦長は戦死し、エスメラルダ号の仇を討ったことになる。

 翌年、チリ海軍の募集に対し、2万人が集ったという事実は、 如何にエスメラルダとプラット艦長の死がチリ国民の心を揺さぶったかがわかる。

 

(3)             ピサグァの戦い

1879112日、イキケ市の北方約60キロ地点にあるピサグァにチリ軍は上陸作戦を敢行し、 チリ領土となった。

 

(4)             タクナの戦い

1880年5月ペルー領のタクナ市をチリ軍が攻撃し、 タクナ市はチリの領土となった。この敗戦でボリビア軍は逃げ散り、その後はこの戦争から手を引いた形となった。

 

(5)アリカの戦い

18806月チリ軍はペルー領だったアリカ市を攻め、 この戦いで勝利してアリカ市はチリの領土となった。

 

(6) リマ市の攻防

1880年末、チリ軍26千人がリマ市に向かって進軍していた。既にピスコの町は占領していた。1881115日チリ軍はリマ市に到着し、 市の中心部のミラフローレ街が主戦場となって総力戦を繰り広げた。24時間で双方が8千人づつ戦死者を出すという激戦となったが、 結局チリ軍が勝利を収めた。その後、チリ軍はペルーの宝物殿などを荒らし、財宝や図書類を大量に略奪しバルパライソに送ったと言う。

この後の戦いは、ペルーの山岳地帯に分け入っての極地戦的な戦いとなり、1883年実質的な戦争は終了し、和平条約を結ぶべく政府間交渉に入った。

 

 

 

 

3章  パシフィック戦争の成果と影響

 

(1)チリ政府はペルー及びボリビアとは1883年に和平条約を締結し、南緯22度及び24度の国境線は現在の国境線にひき直され、ペルーからはアリカ、 イキケをチリに譲渡し、ボリビアからはアントファガスタを取り、結局ボリビアは海への出口を失ったことになる。 しかもペルー領のタクナ市をチリがペルーに返還したのは、19296月3日両国が条約を締結した事による。

この結果チリは、約4分の1に該当する国土を増やし、アタカマ砂漠にあった硝石工場や銅鉱山などの鉱物資源を一手に独占した。

しかし、戦争中にチリ資本の硝石工場は英国資本に買い取られ、 殆んどの硝石産業は英国会社の所有となったが、国は硝石会社から税を取り立てて非常に潤った。

最盛期には300以上の硝石工場があったと言われ、 労働者は買い手市場であったろうと思われる。これら硝石産業に従事していた労働者はチリ人で、 しかもインデオやインデオのメステーソか、白人でもロトと呼ばれる無産階級が大半を占めていた。 労働環境は劣悪で、女子や子供までが低賃金で働かされ、詐取されていたという。


一つの例がフィッチャと呼ばれる丸い木製の私有通貨で、これが労働の代償として支払われたが、 所属している硝石工場でしか通用しない。と言う事は、値段が高くとも自分の雇い主のところでしか使えず、 他のところで安価なものを買うと処罰された。雇い主にして見れば労働者の逃亡防止にも繋がることになる。 しかしこの木製の通貨問題に端を発し悲劇が起きた。

1907年の12月、 サンセレッソ工場のストライキが引き金となり、パンパ中(砂漠中)の硝石工場の労働者が労務改善を要求し、26千人が砂漠を越えてイキケの町に集った。 この労働者達はサンタ・マリア学校に集結して1215日から21日までの7日間、政府の回答を待った。1221日の当日、 兵隊が上陸して来てサンタ・マリア学校を取り囲み、労働者達を一人また一人と銃殺した。この虐殺で三千6百人が銃殺されたと云う。

チリでフォークローレを歌う「キラパジュン」(Quilapayun)と言うグループは、このイキケの虐殺を「サンタ・マリア学校のカンタータ」(Cantata  Escuela Santa Maria)という題名でこの事件を歌い、世界にこの残虐行為を知らしめた。

 

もう一人「キラパジュン」に関係した若者の話をしておこう。ビクトル・ハラ(Victor Jara)と言うフォークローレのシンガー・ソング・ライターで、生前24枚のCDを出した。日本では有名でないが、中南米やヨーロッパでは売れたフォークローラで、 反戦歌的な歌だったと思う。「キラパジュン」を結成した一人で、後に自分のグループ「コンクメン」をつくり、 時の大統領サルバドール・アジェンデ氏に好かれて文化大使に任じられ、キューバやモスクワでも歌ったと言う、 バリバリの共産主義者だった。

 

 

1973911日クーデターが起こり、モネダ宮殿でアジェンデ大統領が自殺して、 ピノチェット大統領が誕生した。同時に反体制狩りが行われ、サンチャゴのサッカー・スタジアム(Estadio Nacional)に数万の共産主義者や反体制派が逮捕され、銃殺された。 所謂、米映画が描くところの“ミッシング”に語られたことである。

ビクトル・ハラは別のスタジアム(Estadio  Chile)に収容されたと言うが、6日後の917日サンチャゴの路上で44発の銃弾で撃たれた死体が発見された。享年40歳。 

「キラパジュン」の他のメンバーは外国に行っていて無事だったと言う。

  1907年のイキケの虐殺に見るように、 労働運動の興発には政府も強い関心を持ち、徹底した弾圧をもって対応した。

 

(2)19709月サルバドール・アジェンデ氏は人民連合を率いて、しかも大統領選は4回目の挑戦で、結果36,3%という低投票率をもってチリ大統領に当選した。

世界は、選挙で選んだ共産主義の実験室と云って、注目をした。 危惧していたとおりアジェンデ大統領は次第にマルキシズムへの傾倒が強まり、基幹産業を国有化し、 中央統制経済にすべく価格や賃金を統制し、武装蜂起のためキューバから武器弾薬を買い取り、 チリの陸海軍などの崩壊を意図したりして、国民の気持ちがすっかり離れてしまった。終局に至る1973年の当時は、長距離トラックなどのストライキが続発し、食料品も入手困難となり、インフレ率も500%を超えるなど、国民の生活は困窮を極めた。そして1973911日、 陸海空の三軍及び警察がピノチェット陸軍最高司令官のもとアジェンデ政権に鉄槌を下したのが、このクーデターである。

しかしその後の情報公開により、米国のCIAによる介入があったと云う事実は、チリでは一般常識であると云う。

 

チリの元大統領だったアウグスト・ピノチェット氏が著述した「チリの決断」(El Dia Decisivo(グスタボ・ポンセ訳)と言う本がある。 ピノチェット氏の略歴を見ると、チリの陸軍士官学校を卒業し、1946年陸軍大尉でイキケ師団第五歩兵連隊に着任、その後、軍のアカデミー教官に就任し、 エクワドルの首都キトーにもアカデミー教官として3年半駐在した。1960 年には陸軍中佐でアントファガスタ第七部隊エスメラルダ部隊長、1963年陸軍のアカデミー副校長、1969年陸軍少将でイキケ第六軍管区司令官、1971年陸軍大将でサンチャゴ首都部隊司令官に就任した。

その後内務大臣プラッツ陸軍大将を補佐しつつ、 陸軍参謀長などを歴任、19735月プラッツ大臣の辞任に伴い、 後任としてアジェンデ内閣の内務大臣及び陸軍最高司令官に就任した、チリ陸軍生え抜きの華麗な実績を持つ将軍の登場である。

 

この本の中に概略次のような記述がある。

「イキケ師団にいた当時のピノチェット大尉は、19471023日早朝の3時に共産主義者のアジテーターを逮捕して、 ピサグァ(イキケ市の北方約50キロの小さな港町、政治犯を収容する刑務所がある)に連行することを命じた。 ピノチェット大尉の率いる歩兵部隊はハンバーストンと呼ばれる硝石鉱山に向かい、 共産主義者を五百名ほど逮捕し軍のトラックに乗せてピサグァに運んだ。」

「逮捕者の中にはピノチェット大尉が知っているカラマの前市長○○氏、 タラパカ州の前知事○○氏、など官僚がおり、ピサグァのキャンプはマルクス・レーニン主義の大学に変わりつつあった。」 当時ピノチェット大尉はピサグァの政治犯キャンプの管理をしていた時期があった。

この記述を見て私は吃驚した。 私がイキケ市に捕鯨冷凍船団を持ち込んだのは、45年前の1964年(昭和39年)のことで、 行く前にサンチャゴの関係者から、イキケは共産主義者の巣窟だから仕事がやり難い、 特に現地での交渉事などは注意してかかれと言われ、覚悟してイキケに入った。

その忠告に従い港湾組合や市役所そして労働組合などは特に気を付けて接したので、 表面上は何も問題は起きなかった。しかし最初は物の価値観や考え方が違うのは国民性が違うためだと思っていたが、 相手達が党員だとわかって以来、相手を選び又は避けて話をするように注意をし、極力虎の尾を踏まないように、 短期間ではあったがイキケでは息の詰まるような思いをした。

この文章を見て45年前のイキケの空気と記憶がまざまざと思い出された。

 

 

(3)結び

アタカマ砂漠から産出される硝石や銅などの天然資源は、パシフィック戦争(La Guerra del Pacifico) の終結から二十世紀の前半にかけて、花形輸出産業としてチリを繁栄に導き、南米の富強国ABC三国(アルゼンチン、ブラジル、チリ)の一角を構成するまでに至った。

 反面、硝石工場や銅鉱山のような過酷な労務環境はマルクス・レーニン主義の温床となり、 その後、この思想がチリ中・南部の炭坑や鉱山業に飛び火し、 その輸出港であるイキケやバルパライソ港では、既に十九世紀末には労働者の組合などの組織化が進んでいた。

二十世紀になると、 共産主義思想は燎原の火の様に全国津々浦々まで広がり、各市町村や企業の労働組合にも影響を与えるまでになっていた。

特に人民連合が結成されたり、1957年に共産党が合法化されるなどして、国民感情にも強い影響を与えた。

 

アジェンデを大統領にしたことについて、私の友人はこう言った。

「共産主義を取り入れたソ連や中国、キューバなどは巨大な貧民層を抱える国々だ。 かってチリも、文盲率が高く驚くほど多数の貧民層を抱えていた時期があり、その人達が少しだけ夢を追いかけただけだ。」

 

(3)現在のイキケの町

私の拙い文章を終えるにあたり、イキケの町をご紹介したいと思う。

チリと云う国は、基本的には二つの山脈にはさまれた、幅は平均約300キロ、縦は南北四千キロ以上ある細長い国である。

二つの山脈と云うのは、一つはボリビアとアルゼンチンの国境沿いにあるアンデス山脈( Costillera de los Andes)で、二つ目は太平洋沿いにある沿岸山脈(Costillera de la Costa)と云い、アンデスは45千米級の高い山が沢山あるが、 一方沿岸山脈の方はせいぜい八百から千米位の高さである。

 沿岸山脈が太平洋に落ち込む手前に空き地あれば、 そこに町を造るという感じで出来たのが、イキケでありアントファガスタであり、ほとんど全てのチリ沿岸の町である。 そしてペルーの国境から南は約千キロにわたって砂漠なので、アリカ、イキケ、アントファガスタの町は当然砂漠の中にある。

 

今回私は45年ぶりでイキケ市を訪問したことになるが、 チリの人は過去十年で大変貌を遂げた町はイキケであると云う。そうかもしれない、と云うのは、私の知っているイキケは、 町はずれにあるビーチ・ラカバンチャの前に、ジェット機が発着出来る広大な空港があったが、現在はその空港は海岸線を30キロほど下った所に移設し、空港跡地には住宅がびっしりと建っていた。

チリの海は南からの親潮フンボルト海流が北上しており、イキケの辺りまで来てやっと泳げる温度となるため、 ビーチ・ラカバンチャはチリ人垂涎の的の海水浴場である。

 

45年前のイキケは、アンチョビ鰯の魚粉工場が主体の漁業の町で、 人口は約八万人だったが、現在は漁業に加えて岩塩、ヨード、銅、鉄鉱石などの鉱物資源の輸出港で、 人口は三十万人を超えると云う。沿岸山脈の頂上にまでびっしりと住宅が立ち並んでいて、 驚いたことに砂漠の中に中・高層ビルを何棟も見かけた。

  チリ人に一番好きなヒーローは誰かというアンケートを取ると、 必ずエスメラルダ号で戦死したアルトーロ・プラット艦長が一番だと云う。

イキケにはプラット艦長に関しての博物館が数ヶ所あり、 さすがイキケ海戦があったご当地の名士である、と納得させられた。

 気候は一年中温暖で、 雨が全く降らないため、かっては木造の家の屋根には瓦が敷かれておらず、油紙一枚が天井を覆っていた。 今回も真夏だから熱いだろうと覚悟していたが、ハワイと同じく貿易風が吹いており、サンチャゴよりは涼しい。

 

チリ硝石の輸出が盛んなころ、輸出先はヨーロッパ、特に英国が中心で、 帰り船にピノ・オレゴンと呼ばれる松材を積んできたため、イキケの町の家屋はピノ・オレゴンで建築されたものが多い。 この松材はシロアリが寄り付かず、その結果今でも歴史的な建築物が多く残っている。

 

 

私が初めてこの町を訪れた頃(1964年)は、 フレイ大統領(父)の時代でイキケに、ソフリ(ソナ・フランカという一種の免税区域、 輸入税6%を払い電気製品など輸入品を買える・ソフリ以外の地域は15%)を造った年とも重なる。 イキケは何時もこの買い物客でごった返している。チリは勿論、隣国のボリビア、アルゼンチン、ペルーからのツアー客が多いが、 今回はブラジル人がイキケでもサンチャゴでも多く見かけた。

 

 イキケの町並みは、 海岸線にそってプラット大通りが南北に縦断しており、海側がビーチで、山側には山裾まで民家が密集して街を形成している。

プラット大通りスタート地点には港湾事務所があり、その海側に突き出た形で港があって、 この港はかっては小島だったが埋め立てヽ港を造成した。

そこからプラット大通りが始まり、 南下すると海側が先述したラカバンチャ・ビーチを約1キロほど下がると小さな岬に至る。 私の時代、町はそこで終ったが、今はこの岬が町の中心になりつつあり中高層のホテルやカジノが出来ていた。 この岬をかわして二つのビーチ(ブラバ・ビーチとブランカ・ビーチ)が約2.5キロ造成され、それに沿って南下するとプラット大通りが終わる。

 

 

 モイエと呼ばれた旧捕鯨場は、この地点より砂漠を3 キロほど南下した所にあり、当時は全くの無人地帯であったが、今は民家が迫って来ていた。

 

先述した旧硝石工場のハンバーストン及びサンタ・ラウラはユネスコ遺産となっており、 イキケから砂漠の山を越えて砂漠の中を走る1時間半の距離にある。砂漠とはこれほど美しいものなるかを感じるドライブである。 サンタ・ラウラ工場は英国の産業革命当時の機械と思われるドでかい機械が印象的だし、ハンバーストンは従業員の居住区や教会、 劇場、ホテル、などの付随施設がそ

のまま残っている。                   終わり

 

 

参考資料 チリの歴史(ハイメ・エイサギレ著 山本雅俊訳)
    ラテンアメリカ現代史(中川文雄 松下洋 遅野井茂雄著)
    概説ラテンアメリカ史(松本伊代著)
 チリの決断 (アゥグスト・ピノチェット著 グスタボ・ポンセ訳)
 チリTVN社制作DVD Arturo Prat DVD La Guerra del Pacifico, DVD Victor Jara DVD Hanbarston