「パタゴニア遊覧記」−(1)              協会会員 相原正和

 

(プロローグ)

遂に来たぞ!やっと、来ることが出来た!これが偽らざる心境だった。el españolに、América Latinaに興味を持ち、19613月、慶大1年の春休み、スペイン語を独習し始め、 2年生に進級後、直ちに同学の士が集う「ラテンアメリカ学生協会」に入会、3年生の夏(196264日〜927日)、「メキシコ経済学術調査団」に参加、México 各地訪問を果たしてから既に幾星霜・・・この間常に、「南米大陸に行き、Patagoniaに足を伸ばしたい」と、願ってきた。

 

希望通り商社マン(「日綿実業」、後「ニチメン」と改称:現「双日」)になり、南米各地に駐在・出張を繰り返し、漸くPatagoniaに辿り着いたのは、1978年秋の事だった。

「ダイハツ車」を販売する目的で、同年3月からChileの首都Santiagoに長期出張していたが、11月のある日、Patagonia地方最大の都市Punta Arenas訪問の機会が訪れたのだ。37歳と若かった私は、愈々夢が実現する喜びで興奮していた。その時、今回(200610月)も訪れた超優美な岩峰Torre del Paineを観ることは出来たが、有名なPerito Moreno氷河、マゼラン(Magallanes)海峡の対岸に広がる地の果ての島、Isla Grande de la Tierra del Fuegoに行く時間的余裕はなかった。しかし、「Punta Arenasの公園にあるマゼランの銅像(正確に言えば、 巨大なマゼラン像の足元に座す勇敢な原住民オーナ族の兵士)の足に触れれば、再びこの地を訪れることが出来る」 との言い伝えを信じて、思いっきりその足を擦ってみた。その言い伝えはやはり、正しかった。 私は再びこの地に、足を踏み入れることが出来だから・・・。

 

 

Torre del Paine〜水晶の尖峰

20061012日(木)、学生時代からの友人中嶋さんと共に、成田を出発。Atlanta(乗り継ぎの為、同飛行場で9時間待機)経由、30時間掛けてSantiagoに到着。翌朝9時同地を出発、Puerto Monttを経て28年振りにPunta Arenasに戻ってきたのだ。

飛行場の外に出て駐車場に向かったが、強烈な風で体がよろけて歩けない。正に烈風だ。体がフワッと浮きそうになる。前かがみになり、スーツケースを重石代わりにしてゆっくり前進。迎えの旅行代理店(名前がViento Sur=南の風=笑ってしまった)の青年に聞くと、「今日の風など、大したことありませんぜ、Señorヒドイ時は時速120キロにも、なりますぜ!」と、ニヤリ。綺麗に舗装された道を、彼の車で市内のバスターミナルに向かうが、物凄い横殴りの風の為、左右に大きく揺れる。世界有数の強風地帯に来たのだ。

1818年、スペインから独立したチリは、首都Santiagoを擁する中央部を中心に発展してきた。しかし、このPatagonia地方(マゼラン艦隊一行がこの地に来た時、guanacoの毛皮をつけ“大きな足”をした原住民を見て“Patagón”と呼び、それがPatagoniaの由来となった。一般的に、南米大陸の南緯40度以南の地を謂い、チリ側とアルゼンチン側、双方合わせた面積は110万平方キロで、日本の3倍)は、自然環境が極めて厳しく、 中央部や他の地方に比べ、殖民・開発は遅々として進まぬまま、年月が経過した。南北4,329キロ(東西の幅は、最大450キロ、最小15キロ)、世界一背高ノッポの奇妙な形をしたこの国の、 正に踵の部分に当たるのが、ここ最果ての町、Punta Arenasだ。

 

1520111日、大西洋から太平洋に抜ける海路を探していたマゼラン艦隊が、 現在のマゼラン海峡を偶然発見し、この地域は初めて欧州に知られ世界史に登場した。爾来400年、多くの大型船がこの海峡を渡り、この町もそれなりに栄え、存在感があったが、1914年のパナマ運河開通と共に、この航路は衰微し、また静かな町に戻ったという歴史がある。

 

この間、チリ政府は、種々の優遇策を講じて、移住・移民受け入れを奨励した結果、 ユーゴなど東欧諸国を中心に欧州系移民が入り始め、牧畜・水産・林業・商業などで、細々と生活の糧を得てきたが、 近年に至り、自由貿易地域に指定され、貿易・観光・各種組立工業などが、盛んになって来た。

近代的な石油関連施設・水産加工業・倉庫・大型ショッピングモールなどが次々と建設され、 観光業と共に若干の地方産業も育ち、中央政府の強力な援助を得て、住民の表情も「明るい」・・・筆者の目には、そう見えた。

 

この地方特有のñire(楡)の木が、皆一様にほぼ直角に見えるほど、 風に靡いて、ひん曲がったままになっている。当地の名物、猛烈な風による現象だ。異様で不思議な世界だが、これもPatagoniaだからこそ、見られる光景なのだ。 この強烈な風は表土を削り裸地を拡大し、土地は急速に砂漠化する。聞くところによると、 先住民族はこの「風」を非常に畏敬し、神に見立てたという。

 

さて、何はさておき、両替屋に行こう。前日Santiagoの飛行場で、200 ドル換えたものの残り少なくなり、どうせ今後も必要となる為、急ぎ交換することにした。 デブのオッサンがひとり、鉄格子みたいな囲いの中でこちらを睨みつけ、デカイ態度で、 「何ドルだ?」と横柄な口を利く。マ〜、仕方ないか?昨日の飛行場では、1ドル=505ペソだったのが、ここでは、528ペソだからな・・・。

 

市内のFernándezバス会社に着くと、Puerto Natales行きの客が、既に数名、待合室でブラブラしていた。 地元の人、欧州人、ブラジル人・・・などなど。掃除のオバさんと目が合うと、ニコッと優しい笑顔。 「何か飲み物はないかね」と聞くと、「アイよ」とばかり、直ぐに目の前の売店から果物ジュースを持って来た。 何のことはない、そのオバさんが、店をやっている訳だ。定刻1430満員の客を乗せたバスは出発した。

 

Punta Arenas市内の高い建物は、マゼランの銅像があるセントロくらいで、そこを少し離れただけで直ぐに住宅街になり、低い軒並みが続く。古い木造の家屋も結構残っている。バスはアッという間も無く、海岸通りに出る。石油備蓄タンク・工場・倉庫などが散見されるが、やがて、大きな木が全くなく、棘のある潅木と、大地にへばりつくように生えている固そうな草だけが見える、砂漠というか、荒野というか、大平原が現れ、我々を乗せた長距離バスは、ただただ真っ直ぐ北へ、一筋に伸びる国道9号線を、狂った様に懸命に走る。座席の座り心地は、余り良くはないが、マ〜、南米だし、こんなものかと、思わず納得。町も村も集落も・・・行けども行けども、全く見当たらないのだ。エライところに来てしまった。

 

強烈な風がビュオー、ビュオーと、薄気味悪い声を上げながら、バスに襲い掛かる。 横に大きく揺れる。転覆か?オイオイ大丈夫かいな、ウンちゃんヨ?突如バスが止まった。 軍のチェックポイントだ。アルゼンチンに近く、この地域一帯あちこちに、国境警備隊(Carabineros:カービン銃を持った騎銃兵の事。チリには4軍があり、陸海空軍の他Carabinerosは、警察軍と称される)が警戒線を敷いている。 ウンちゃんは手馴れた様子で、警備兵と何やら言葉を交わし、直ぐに出発。 バスは、だだっ広く空漠たる原野を走り続けるが、行き交う車は殆どない。爆走3時間、家並みが見え始める、 小さな町に近付いたことが分かる。Puerto Natalesだ。28年振りに戻ってきたのだ、懐かしいな〜〜。人口18,000人。

 

バスはゆっくりと町なかを走り、Última Esperanza湾(地の果てで、“最後の希望”とはブラックジョークか?)を右手に見ながら、ターミナルに着いた。 ホテルの人か誰か迎えに来ているのでは・・・。甘いね〜〜。誰も来ちゃいないよ。 スーツケースを引き取り、タクシーに乗り込む。ウンちゃんに聞く。 「どうだね、ここの景気は?」「イヤー、余り良くないね。しかし、これから観光シーズンが始まるから、 多少はね。」とニヤッと笑う。

 

一瞥したところ、町並みは比較的整然と碁盤目状になっていて、 商店、公園、ホテル、レストラン、土産物屋、教会、役場などが町の中心部に集中している感じだ。 観光客はせわしなく、住民は悠然と歩いている。バスターミナルから僅か3分で到着したホテルは、 規模も小さく小綺麗だが、名前は「Saltos del Paine」と大きく出た。カッコイイネ〜〜。 小太りの女主人とフロントの可愛い女性が愛想よく迎えてくれた。「よくおいでなすった。 日本からですってネ〜?当地での滞在が、素晴らしいものであります様、祈っています」。ウレシイネ〜〜。 日本から持参の根付、最中を進呈したら、大層感激していた。着いたばかりだが、直ぐに街に繰り出し、手始めに土産物屋に入る。 早速、「Torre del Paine」と恰好良く刺繍された形の良い帽子(若い売り子さんは、jockey・・・「ジョッケイ」と呼んでいた)を購入。もう「Paine人」の積りか?絵葉書も数枚買った。明日のTorre del Paine及び明後日の Perito Moreno氷河探検(?)に備えて、中嶋さんは、 アルパカのセーターを急遽手に入れた。軽くて暖かそうで、なかなか良く似合う。 女性店員も「イチローさん、ステキ〜〜」と、大絶賛。超ご機嫌になった同氏、 ついつい財布の紐が緩み、帽子も買ってしまった。

 

さて、腹が空いたな・・窓越しに見たところ、なかなか高級そうなレストラン「Angélica」に入ったが、時間が早いのか、客は誰もいない。 その芳醇な香りと美味で世界的に有名な、チリワインで乾杯。オニオンスープも肉もサラダも、全て美味かった。 行き届いたサービスで我々を歓待してくれた美人camareraと写真に収まる。名前はÁngelaといいViña del MarSantiago西方120キロにある太平洋岸の保養地として有名)出身で、都会の生活に飽き、 疲れた心身を休めるべく、数ヶ月前から自ら進んで辺境の地に来たという。このワケアリ美人に幸あれ!!

 

翌朝7時、食堂で簡単な朝食を摂る。Galiciaから来たスペイン人女性2人と楽しい会話。Galiciaは、スペインの中でも筆者が一番好きな地域でもあり、その歴史、文化、景色、食事、人情などの素晴らしさを褒めちぎると、相好を崩して喜んでいた。7時半、愈々、今回旅行の目玉のひとつTorre del Paineに向かって出発。10席程しかないミニバスは満杯。一人旅のメキシコ人青年、ブラジル人の家族、 新婚旅行のスペイン人、ビジネスで南部に来たチリ人、年金生活のハポネス(我々のこと)・・・などなど。スペイン人夫妻はMadrid出身で、筆者が昔(198488年)居住したMadrid北部Chamartín駅の近くに住んでいるという。嬉しいネ〜、寿司食いネ〜。旅はこういう出会いがあるからこそ、素晴らしいのだ。

 

朝日がÚltima Esperanza湾に反射し、遥か後方には、 残雪を頂いた秀麗なアンデスの山々が望見され、この世のものとも思えぬほどの美しさ。まるで夢を見ている感じ。 5分も走るともう郊外だ。木は全く見えず、草が生えているのみ。花もまだ咲き誇ってはいない。バスは無人の原野を、黙々と走り続ける。 正に狂気を催す寂寞の地というべきか。1時間ほど走ると、ナ、ナ、何だ、あれは。異様な光景が現れた。 数百本の木が、真中から折れ、枯れ果て、大地にその残骸を留め、無残な姿を晒している。一体これは何だ。 風、雪、寒気にやられた結果だろうか?まるで死の森だ。木はlenga(ナンキョクブナ)といい、Patagonia一体で広く見られる。

 

広い平原には、幾つかの小規模なhacienda(農場)があり、馬、牛、羊、犬、なども見えるが、牧童達の姿は殆ど見えない。19世紀に入り、イギリス人達がこれらの土地を大量に奪い、羊毛業、酪農業を営み、 巨万の財をなしたそうだが、今では全ての土地が、現地在住の人々の所有になっているという。

 

2時間後、漸くCerro Castilloに到着。屋根に、ñandúPatagonia特有の駝鳥の様な動物で、非常に愛くるしい) の看板をつけた土産物屋がポツンと立っている。Paine観光の物資補給前進基地といった感じだ。広々とした荒野の上空を見るとcóndorが獲物(動物の死骸)を探しながら、悠然と大きく円を描きながら飛翔している。 広げた羽の長さは34メートルはあるだろう。国境警備の軍のバラックがあるが、 兵士の姿は見えない。隣国アルゼンチンまで、僅か数キロという。国境と言っても、緊張感は全く無く、平和な雰囲気だ。ここ20数年の間、両国関係は、劇的に好転したのだ。

 

1978年の出来事を思い出していた。当時、チリとアルゼンチンは、Fuego島南の小島(PictonNuevaLennox)を巡って、一触即発の戦争の危機にあった。当時長期出張していたSantiagoでは、軍の指導による灯火管制の演習も行われたし、私は懇意のチリ人経由、 チリ海軍から高速給油船や高山仕様の発動機の引き合いを入手した。給油船は、良いオッファーが取れなかったが、 ブラジル製の発動機を10台ほど契約、納入した。

 

1879年〜83年、硝石の採掘権を巡って、チリがペルー、ボリビア両国を相手に戦い、勝利したGuerra del Pacífico(“太平洋戦争”:その結果、ボリビアは太平洋への出口を失い、ペルーはArica地方をチリに割譲)から丁度100年・・・当時、軍事政権下の両国ともカッカしており、戦争の危機が存在したが、 ローマ法王の仲介により、3島ともチリ領と裁定され、近親相争う危機は去った。 両国とも大好きな筆者としては、平和的解決が出来て本当に良かった。

 

本題に戻ろう。バスはTorre del

Paineを目指して、強風に煽られながら、懸命に走る。風で激しく揺れる白波があちこちに見えるLago Sarmientoを左に見ながら、Salto Grande(大滝)に着く。正に圧巻、豪快に水しぶきを吹き上げ、流れ落ちる瀑布。 岩上に立つと、今まで経験したこともない烈風が吹き付け、我が75キロの体が宙に浮き、数メートル吹き飛ばされる。 目の前にPaineの秀峰が、我々に押し被さるような形でその姿を現し、我々の興奮はその極に達する。 懸命に低い体勢で写真を撮ろうとするが、カメラを持つ手元が激しく動いて、なかなかシャッターが切れない。 記念に自分の写真を中嶋さんに撮って貰ったが、帰国後現像してみたら、怒髪天を突くが如く、髪が激しく逆立ちして いた。

 

緩やかな山を行くと、乗客が窓を指差しながら、異様な声を発し始めた。

根っからの野次馬の筆者は、 ナヌ、ナヌとばかり、直ぐに窓外を見ると、先述したñandú駝鳥科の動物)の一群が見える。灰色の羽を持ち、ピョンピョンと軽快に跳ねながら、 愛嬌を振り撒きつつ地上を歩き回るが、結構警戒心も強い。更に進むと、今度はguanacoの群れが10数頭、悠然と草を食べている。野生ながら、なかなか人懐っこい。 軽やかな四肢、怜悧な耳、憂愁を秘めた目。

駱駝科との事だが、毛皮が暖かそうだな〜。バスが止まると、 観光客は一斉に飛び降りて写真を撮り始めるが、guanacoは、なかなか逃げ出さない。10メートル位まで近付くと、 「弱ったナ〜」と頭を掻きながら(?)優雅に移動して、我々から離れる。小さな水溜りには、体全体は黒いが、 首周りだけが白いという変わった水鳥も見えた。pato de los torrentes(急流のアヒル)というそうだ。

 

サ〜〜、きたぞ〜〜。見えてきたぞ!!まず左手に、鋭い刃物の様なCuernos del Paineが現れた。尖峰が3つ見えるが、標高は、2,2002,600メートルという。

次いで、右手に、 この国立公園の名前にもなっている、有名なTorres del Paineが、3本の岩峰が、我々を威圧するように傲然と現れた。 屹立する水晶の塊の様だ。28年前の感動が、そして感激が、蘇る。自然の創造した造形美だ。 これこそ太古の時代、神の御技により制作された、近寄り難く、威厳十分で、高貴な作品だ。標高は主峰が3,050メートル、他はいずれも2,800メートル級だが、 氷河による長年の切削で出来た、これらの尖峰の威容は、実に壮観無類。天に向かい、地に向かい、 強烈に自己を主張し、その存在を何者にも侵させない断固たる自信に満ちた表情だ。この優美さ、 人をして畏怖せしめる強烈さは、如何なる達意の名文家と雖も、的確には表現出来ないだろう。Seeing is believingだ。

 

山道を通り抜けるバスの移動と共に、車窓から見る山の姿も大きく変わり、 印象も変化する。それぞれが、実に変幻自在というか、素晴らしい。Lago NordenskjöldLago Pehoéが、コバルトブルーの美しい水面を見せる中、バスはHostería Peroéに入る。別の会社のツアーの連中も来ていて、賑やかなロビーだ。腹が減ったな。 慌てて近くのテーブルに着こうとすると、ガイドさんが我々に、「皆さんは、ツアー代金と一緒に昼食代も払っているので、 こちらの席に座って下さい。皆さんには、肉もデザートも出ますが、あちらの席の方々には、出ませんよ。」と、 諭すように説明する。そうか、そうなのか。慌てる何とかは、貰いが少ないよね。急に余裕が出てきたのか、 暫しビールを飲みながら、バスで親しくなったチリ人ビジネスマン、スペイン人新婚さん、メキシコの若者達と会話を楽しむ。 中嶋さんは、60歳の手習いで始めたスペイン語に磨きをかけるべく、 最も美しいスペイン語が話される地域として有名なSalamancaで、3ヶ月間、一日13時間もミッチリ勉強したという努力家だけあって、日常会話は、 かなりイケルところまで上達していた。大したものだ。

 

この食堂の真ん前にLagoPehoé が碧く澄んだ美しい水面を見せて横たわり、その直ぐ奥に、Cuernos del Paineの岩峰が、悠然としてこちらを眺めている。 峰と峰の間には残雪が、へばり付く様に岩を覆い、頂きの周囲には淡い白雲が棚引き、風と共に、 その雲も次々と様相を変えて行く。とにかく絶景、自然の絶妙な造形としか、表現のしようがない。 いつまでも、いつまでも、この場にいたい。この絶景を眺め続けたい、離れ難い思いが募るが、これから、 氷河から流れ出る氷塊を掴むことができるという、摩訶不思議な湖Lago Greyに行く予定になっている。まずはPaineを離れ、そちらに、顔を出してみよう。

 

バスで10分、Lago Greyに到着した。鬱蒼とした千古不伐のlengaの森が続く中を進むと、突如視界が開け、だだっ広い川原が現れ、更にその左手には、 紺碧が映え、如何にも冷冽そのものと見える水面が現れる。かなり大きく、Paine国立公園を代表する氷河、「Grey氷河」が流れ込む湖だ。大小数十の氷山、氷塊が浮かんでいるが、その氷塊のいくつかが、 分解して更に小さな塊となり、岸に流れ着いている。その塊を両手で掬い上げ抱えてみると、強烈な冷たさだ。

「ツメテー」と思わず叫び、落としそうになる。 その氷塊を手にしながら、ガイドさんに、中嶋さんと一緒の写真を撮ってもらった。氷山、氷塊を直ぐ目の前に見て、 しかも氷塊の一部を我が手にすることができたのは、実に感動的だった。(続く)