堕天な彼女 
 
 第1回 
 
 
 矢上リサ。
 彼女は、いつもの冷静な瞳で俺を見ていた。
「あっ、あのっ、そのっ」
 言葉が出てこない。
 うわずった声は、自分でも死ぬほど情けなく聞こえた。
 汗がおとがいを滴り落ちる。
「だからっ、そのっ、付き合って……くれないか」
 くれないか、のところは、蚊の鳴くような音しかしなかった。
 それより、蝉の声のほうがうるさかった。
 夏の札幌。もう少しで夏休み……の体育館の裏。
 男、ナガシマタカシ。17歳の初告白。
 こんな情けないものになってしまうとは、夢にも思わなかった……。
 昨日の晩、ちゃんとイメージトレーニング何回もしたのになあ。
 今日の朝も3時に起きて、死んだじいちゃんに願掛けしてきたのになあ。
「ごめんね! オレ、その、やっぱり、悪かった! うん! それじゃあ!」
 こんな言葉だけは元気よく出てくる。
 チクシィオーッ!!! 失敗した!
 でも清々しくなるくらい思いっきりの失敗だ!
 俺は心の中で叫んでいた!
 バカヤロォォォッッ!
「いいですよ」
 だから彼女の声が聞こえながらも、うっかりそのまんま走り去ってしまうところだった。
「ハ?」
 革靴の底を擦って止まった。
 首をギギギッと回して彼女の方を向く俺。
「今、なんて?」
「いいって、言ったんです」
 俺は間の抜けた声で訊いた。
「何で?」
「あなたは私に交際を申し込みましたよね?」
「は、はあ」
 頷く俺。
 彼女も、そのサッラサラのショートヘアを揺らしながら頷いた。
「それで、わたしはOKしました。つまり、交際してもいいと言うことです。問題ありますか?」
 一秒。
 二秒。
 三秒。
「いえっ! トンデモハップン! まったくっ、ぜったいっ、そのっ、問題有りませンッ!」
 つまりなんだこれは、いわゆるオー・ケーということなんだな!?
「OKなんですね!?」
 息を荒げながら訊く俺。
「ハイ。そう言いました」
 彼女は、全く冷静な様子で、頷いた。
 そのこの世のものとは思えないほど白い美貌を、コックリと上下させて。
(じ、じいちゃん、やったよ……)
 拳を握りしめ、涙を流しながら天に向かって敬礼をする俺。
「ところで……」
 彼女は言った。
「そのためには、一つだけ質問と、一つだけ条件があります」
「は、はい……」
 彼女はすらりとした人さし指をピッと立てながら言った。
「質問です」
「はいっ!」
 俺は肌が粟立つような緊張感を味わっていた。
(うわーっ、なに訊かれんのかなーッ! やっぱり、定番は今まで彼女がいたことあるかどうか、かなあ。はじめてだって言ったら……いやがられるかな!? 俺、だって、まだアレだってしたことないし……)
 だが、発せられた質問は俺の予想とは、ベクトルとスカラーぐらい違うものだった。
「あなたは人間ですか?」
「はいい?」
 目が点になる俺。
「聞こえませんでした?」
「いいえ、良く聞こえました……が……」
 なんのこっちゃ。
「人間……ですか」
「ハイ。人間ですか?」
「まあ……人間……ですよ」
 目をパチクリさせながら答える俺。
 べつに自分は狐、狸の類ではない。両親のほうからもそう言った話が出たことはない。
「わかりました。それは私の望んでいる解答でした」
 よく分からないが、一つ関門をクリアしたらしい俺。
(やたーっ! あと一つだ。あと一つだけで……)
 そのとき、昼休みの終わるチャイムが鳴り響いた。
「うわっ、いけない。もう戻らないと……矢上さん!?」
 俺は驚いた。まあ、さっきに比べると少ない驚きだったが。
 彼女が地面のコンクリートの上に、どこから取りだしたのか筆と墨を使って文字を書いていたからだ。
「な……何してるの……?」
「私とこれからお付き合いするあなたに、一つ知っておいて欲しいことがあります」
「何ですか?」
「これが本当の私の名前です、現世での」
 そこにはこう書いてあった。
 夜神理殺。
「私の名前は、本当はこう書くの。覚えておいてください」
 そう言うと、彼女は去っていった。あ、こう言い残して。
「この場所で、7時に待ってます。それじゃ」
 
「ふう……もうすぐ……だな……」
 うっすらと暗くなり始めた7時。
 あのあとの授業も、彼女の出してくるであろう”条件”が気になって、いっこうにアタマに入らなかった。
「どっちから来るんだろ?」
「もう来てます」
「うわぁぁぁっ!?」
 俺の真後ろから発せられた声に、俺はしんそこ驚いて飛びずさった。
「あ……理殺さん?」
「ふだんは漢字で呼ばないでください」
「はあ。じゃあ、リサ……さん……」
 さんを付けるべきなのかどうか迷う俺。
 いや、そんなことより!
「それで、リサさん!」
 俺は彼女の冷静な瞳を見つめた。
「条件って、どんなこと何ですかっ!? 俺、何でも大丈夫ですよ!」
 そう、何でも大丈夫な気分だった。なにせ、リサと付き合えるのだから。バイトは禁止だったが、貢げと言われたらいくらでも貢ぐつもりでいた。馬にでも何にでもなるつもりでいた。
 しかし彼女は淡々と言った。
「何でもなんて……そういうこと……言わない方がいいですよ」
「何でですかっ!?」
「私はそんなことしませんけど……それを条件受諾のサインと取って、いいように操られちゃう場合も……」
「リサさんだからこそ言ってるんです!」
 彼女はコックリと頷いた。
「そう言うことなら、問題ないです。それで、条件ですね」
 俺もグイッと頷いた。
「言いますよ」
「言ってくださいっ!」
 俺は拳を握りしめて言った。
 覚悟は出来ている……つもりだった。
「わたし、実は無意味を司る堕天使、ベリアルの化身なんです。それを認めて、服従してくれますか?」
 その覚悟をスペースミサイルクラスで飛び越える発言だった。
「はあああっ?」
 開いた口が垂れ下がる俺。
 彼女はそれを見ると、クルッとふり向いて歩きだした。
 あわてて前に回る俺。
「ど、どうしたの?」
「帰ります」
 彼女は、一応立ち止まって言った。
「ど、どうして?」
「本当のことを言ってるのに、その態度は失礼です」
 俺は面食らって、二三歩後ろに下がった。
 しかし、思い直した。
(これは彼女の冗談なんだ。そうに違いない。そうか、なんて心の狭い男なんだ俺は! よしっ!)
「わかりました!」
 俺は頭を深々と下げた。
「失礼な態度を取ってすいませんでした!」
 彼女は、すこしアゴを上向かせていった。
「では、私をベリアルの化身だと認めますか?」
「もちろん認めます!」
「それで付き合う気があるんですか?」
「もちろんです」
 彼女は言った。
「じゃあ、土下座してください」
 俺は躊躇なく土下座した。
「本当に、申し訳ありませんでしたーっ!」
(これでリサさんと付き合えるなら、安いものだっ!)
 しかし、その後の反応はまたしても俺の予想を裏切るものだった。
 ガツッ!
(え?)
 背中の一点に掛かる重さ。
 そうして、先ほどとは全く違う声が降ってきた。
「それでよいのじゃ、まこと下賤のおのこなぞが手間を取らせよる」
(こ、これ、背中ふまれてる……?)
 そして、その先ほどまでの少女とは全く違う、どこか気品を漂わせながらも甘くねっとりとした淫靡な声は……。
(な、何なんだ……?)
「面を上げよ。タカシ・ナガシマ」
「は、はい」
 俺は顔を上げた。
(ぶっ)
 その途端に、卒倒しそうになった。
 目の前には、彼女の夏服のスカートの中が、つまりはパンツが丸見えになっていたのである。背中をふまれながら相手を見上げたのだから、当然そうなる。
「そちはこのベリアルのこの世の化身に惹かれ、交わりを持ちたいと願うそうな?」
(あ、青地にシロの水玉に、フリル付きだあーっ)
 パンツのことしか考えられない俺。
「何じゃ、これが気になるのか?」
 彼女はフフンと笑いながら、ゆっくりとパンツに手をかけた。
(う、うわっ!)
 しかし、その手は思わせぶりに動きながら何もせず、背中から足をおろし、その手で俺の顔を上向かせた。
「永劫に近い時を生きる我にとっては、そちのような者などほれ、瞬く間に散るさくらばなの様なもの。哀れに思わんでもない。これからは精一杯余に仕えるのであるぞ?」
 優越と嗜虐の笑みを浮かべた、美少女の顔。
「は、はいい……べ、ベリアル様……?」
 俺は、奇妙な満足感を覚えながら、ふぬけた声を出した。
 彼女は手を離すと、服をサッサッとなおした。
 そして、
「それじゃあ、また明日」
 彼女は、途端に元に戻っていた。
「え、へ、あの……?」
「わたし、普段はネコ、かぶってます」
 彼女はニャア、と、猫の手真似をした。
「それじゃあ、また明日、七時にここで」
「あ、ああ……」
 スタスタと歩み去って行く彼女。
「う、うああ……」
 いままで味わったこともない疲れに襲われ、その場に倒れ込む俺。
 夜空には、星がまたたき始めていた。
(なんか……とんでもないことになっちゃったかも……)
 だが、こんな事は、彼女のとんでもなさの、ほんの一端にしか過ぎなかったのであった。それを、この時の俺は、まだ知らない……。