ある世界
 
 
 その男は、駅に併設されたショッピングモールの一階の、地べたに座りこんでいた。
 色あせた衣服は、元は何色だったのか、分からない。
 形の崩れた帽子をかぶり、その下から覗くまなこは虚ろだった。
 誰も男の事を気に留めない。
 みな用事があるのだ。
 華やかな日常の雑踏の中で、男は一人、座っている。
 そんな中で、じっと男を見つめているただ一つの視線があった。
 青い風船を持った、青いドレスの、五歳くらいの女の子だ。
 金髪の、碧眼で、白い肌をしていた。
 彼女も雑踏のなか、一人立ち止まっていた。
 彼女は、一人きりだった。少なくとも、周りに家族の姿は見えなかった。
 男は、その視線に気が付いた。
 途端、呆けたような表情に、生気が灯った。
 しかしそれは
「……!!」
 けっして喜びの表情ではない。
 むしろ逆だった。
 男は、少女の食い入るような視線に、両手をかざした。
 必死で身をよじって、その視線を避けようとした。
 しかし果たせない。
 少女が一歩前に進んだ。
 男は後ろに這いずった。
 もう一歩。
 また這いずる。
 そんな事がくり返された結果、男はついに壁にぶつかった。
 これ以上後ろへ逃れる事は出来ない。
 少女が近づいてくる。
 一歩。
 また一歩。
「許してくれ」
 男が、初めて口を開いた。
「何を?」
 少女も。
「何をも、だ。ああ、だからつまり」
 男は、必死で空中に何かを描いているような動作をした。
「俺は何もしなかったんだ」
「そう、あなたは何もしなかった」
 少女は言った。
 その表情には怒りは浮かんでいない。
 だが空虚でもない。
 それは、しるべを伝える使いのかんばせだった。
「そうだろう!?」
 男は叫んだ。
 雑踏は、二人など存在しないように流れて行く。
 赤。
 青。
 黄色。
 紫。
 ベージュ。
 茶。
 黒。
 色とりどりの、
 笑いが、
 軽い驚きが、
 おどけたジョークが、
 すこし華やかな日常が、
 流れて行く。
 二人だけが流れから取り残されている。
「俺は何もしなかったんだ! だから、こうしてここにいる!」
「でも、あなたは何もしなかったわけじゃない」
 少女は言った。
 よく見れば、その目は青い宝石で出来ていた。
「何を……言ってるんだ?」
「ほんとうのことを」
 少女は淡々と言った。
「俺には……」
 男は中空を見つめながら言った。
「何なのか、さっぱり分からない」
「だいじょうぶ」
 少女は言った。
「もう準備は整っているのだから。さあ行きましょう。新しく産まれるために」
「俺はまだ死んでいない」
「あなたは生きた事がない」
「ならば産まれようが無いじゃないか、そうだろう? いや……違うか、つまり」
「言葉の意味は、一つではない」
 少女は言うと、さらに男に近づく。
「あなたは考えてはいない」
「お前は……機械に似てる」
「機械だもの」
「そうなのか?」
「そう見える?」
 少女はスカートを広げて、お辞儀をした。風船は放さぬまま。
「機械って何かしら?」
 男は総毛だって、立ちあがった。
「お前は狂ってるんだ!」
 少女を激しく指さす。
「お前! お前が! お前さえ!」
 男は少女につかみかかった。
 少女は抵抗しなかった。
 男は少女の細い首に両手をかけた。
 少女は棒立ちのままだ。
 男は必死に力を込める。
「あ……」
 少女の首には、傷一つ無かった。
 男の指は、すり抜けていた。
「それとも死ぬために行くのがいいの?」
 少女は小首をかしげた。
「それとも、生きるのでも死ぬのでもない場所に行く事を?」
「俺は……哲学は嫌いだ」
「私もよ」
「宗教もだ!」
「私も」
 少女は、スルリと男の身体にその持っていた風船をくくりつけた。
 男の身体は、風船につるされて、
「お、おあああああああああ」
 男の恐怖の叫びと共に、ゆっくりと上がっていく。
 ショッピングモールの天井をすり抜けて、男は私たちからは見えなくなった。
「あの人、どこにいったのでしょうね」
「ここではないどこかへ」
 誰かが答えた。
「ふうん」
 少女は言うと、その場で、7月にホースで散水された水しぶきになった。
 すこし虹が出た。
 ショッピングモールの人びとは相変わらず、にこやかに流れ続けている。