二度も緊急脱出をした男

F−86D全天候迎撃戦闘機の雄姿
    右下僚機のピトー管

 二度も緊急脱出した男

 第一操縦学校防府分校で初めての練習機T-34メンターで池田健治君と田代昇君は、同じペアーを組んで訓練を開始した。この分校は開校したばかりで、建物はフライト・ルームと食堂のみであった。特に今、思い出すことは、昼食のことである。昼食だけは飛行場の食堂で頂き、この頃から「航空加給食」なるものが卵一個、牛乳一本とか付加され少し優遇された。また、カレーライスがたびたび献立にでた。、理由は分からないが、カレーライスのときには飛行機酔いになるものがたまたまいて、まっ青な顔をして、訓練を早めに終わらせて戻ってきたりするので、なぜか皆ナーバスになりカレーライスを食べ残したりするものもいた。今から考えれば、たわいもないことに怯えて、偶然起こった事にそれがあたかも真実でもあるかのように思い込んでしまったのだろう。
 飛行訓練のときは、フライト・ルームで三人いっしょにブリーフィングを受けた後、当の本人は自分の落下傘を背負い、もう一人は教官の落下傘を運び、もう一人が必要な書類を記入したりする。その頃、教官も訓練機に到着し全員でそれぞれ外部点検を終わらせ、生徒は前席、教官は後席、あとの二人は翼端で見学し地上滑走を開始するまで見守る。そして、交代のときはプロペラを回したまま落下傘を背負って、すばやく交代し、効率よく行った。

 訓練のコースは、一ヶ月毎につぎつぎと入って来るし、また、卒業もしていく。そして、六ヶ月の訓練期間はアッと言う間であった。
 今までは全てアメリカさんの言う通りにやってきたが、この頃から航空自衛隊も独自の色を出し始めた。それが、われわれのコースから適用された。それは、アメリカ式では、第二操縦学校(次のコース)の受け入れ態勢が二十四名だとすれば、それ以外は全てエルミネイト(クビ)してしまっていた。これではもったいないということで、一定のレベルに達した者は卒業させ、一ヶ月遅れて次のコースに編入させることになった。私は次のコースになり池田君の一ヶ月後に訓練を続けていた。そして彼はわれわれ同期のトップをきって、全天候迎撃戦闘機F-86Dへ進み、私は昼間戦闘機に乗ったので、ずっと離れ離れになってしまった。そして、その間に彼は、二度にわたる緊急脱出をせざるを得なかった。一回目はT-33、次は約一年後にF-86Dに搭乗中であった。細かいことは、彼本人がわざわざ「緊急脱出の記」を送っていただき、別に一篇ができそうな内容である。緊急脱出を証明する書類をお送り頂いたので添付する。
 結局、彼はついていたのか、ついていなかったのか、二度の災難にも負けず、それを打ち負かして今でもピンピンしている。このような貴重な体験者はめったにいない。戦後の日本には彼しかいない。そして、このような友人を誇りに思っている。




    
     キャタピラー・クラブの由来

 キヤタピラー・クラブは落下傘を用いて緊急脱出し、生命を全うされた空の勇者たちの間に自然発生的に誕生した世界的な組織であります。この組織は、クラブと称されてはいますが、世にいうクラブとは異なり、落下傘によって生命を全うした歓喜の思いを背景にした心と心の組織ともいうべきものであります。
 このクラブ員であることを証するバッジは、蚕(キャタピラー)を型どったもので、脱出降下のときに使用された落下傘の製造会社から贈られることになっています。蚕がクラブ員章として使用されるようになったのは、おそらく従来の落下傘が絹で作られていたことにちなんで選ばれたものと思われます。わが国でも、この組織は戦前からあり、当時唯一の落下傘製造会社であった弊社からクラブ員章として蚕の蛾を型どったネクタイピンを贈っていました。
 このピンは100個作られ、それぞれクラブ員の胸間を飾ったものでありますが、戦時中一時中絶し、その記録も戦火をこうむりましたので、ここに新たに世界的に共通したキャタピラーをクラブ員章に定め、第101番から再出発することにしました。
 会員の落下傘をパック(収納)された方々は直接クラブ員になられる訳ではありませんが、クラブ員の芳名を記録した楯をお贈りすることにいたしました。
 この楯には、次々に会員の芳名が刻み込まれパッカーの優れた技術と栄誉を永久にたたえる標章となるものであります。

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