尾瀬紀行
残雪の尾瀬・燧ケ岳登行(13)

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 尾瀬紀行(25)燧ケ岳 「燧ヶ岳神社・・?」  ,



尚、「燧ケ岳」の山名の由来について、『新日本山岳誌』よると・・、(要旨)

『 福島県と群馬県の境界線は尾瀬沼を通っているが、藩政時代も境界争いが絶えなかったため、元禄11年(1698年)6月2日に沼田領土出村と会津領檜枝岐の山守や名主が境界を尾瀬沼と定めたと古書にある。 そのため古来、尾瀬沼を「さかひ沼」とも呼んだ。 
沼田街道筋は檜枝岐村の草創のころからあったと思われ、平安時代の村の記録にもあることから隣国との境界争いが長い間つづき、現在でも取水計画が問題となっている。 (中略) 雄大な山姿は古くから燧大権現として崇められ、星家に伝わる『家寳記』(家宝記)巻十三によれば次のようにあり、本村内の愛宕神社境内に社殿を建立して現在に至っていることが分かる。 「燧大権現 有会津郡檜枝俣山 是ハ燧嶽ノ頂ニ天長九年壬子「葛木一言主命」ヲ祭村民為鎮守」 天長九年壬子は832年にあたり、駒形大明神は弘仁七丙甲(816年)に鎮守崇神と同書にあるので平安時代初期に両山は開山されていたことを知ることができる。 近年になって平野長蔵は1889年8月20日に俎ーに登頂し、同年9月24日に石祠を建立した。 平野長蔵は神官の資格を得て、自ら神事を司った。
 』 

と記されている。


ただ、山頂石祠は檜枝岐本村に祭られている燧ヶ岳神社の奥の院としたとあるが、檜枝岐には燧ヶ岳神社はどうしても見当たらず、本村には檜枝岐歌舞伎でも有名な愛宕神社が鎮座するのみのようだ。 

燧ヶ岳神社は、火を噴く山であったことから火打ち山ともいわれ、火を鎮めるために社でもあり、このことは愛宕神社の由来由緒も同様の意味をもつ。 

或は、燧ヶ岳神社と愛宕神社は、名前を替えた同一神社ではないか・・??。


尚、「燧ヶ岳」は、凡そ500年前にも噴火した若い火山といわれる。 
この時、檜枝俣の七入地区あたりには影響を及ぼしたとされているが、燧ヶ岳の溶岩ドームはたいへん穏やかに出現したらしく,その為か麓の檜枝岐そのものには損害らしいものなく、噴火の模様を書いた古記録なども存在しないという。 
500年前というのは16世紀で、室町期の末期から戦国時代に当る。

実際の激烈噴火の年代は地質学的に云えば凡そ8,000年前頃とされ、この時、山体崩壊を起こして尾瀬沼や尾瀬ヶ原が生成されたとされている。



真正面にのびやかな会津駒の山容が実に堂々として良い。
そして、すぐ隣に見えている同じようなピークである柴安ーは、頂上の外輪山系では最も標高があり、所謂、燧ヶ岳の標高はこのピークを指す。(俎板より10メートルほど高い) 

俎板ーから柴安ーへは緩やかな下り、そして上りがあってピークに立つと、何より尾瀬ヶ原と至仏山の展望が壮大で美しい。 

眼下には尾瀬沼の全貌をはじめ日光連山、奥鬼怒から連なる帝釈山塊、那須連峰、会津駒、平ヶ岳、巻機山、谷川連峰から武尊山等360度の眺望が楽しめる。 


思えば、深田久弥氏が私的に定めた「日本100名山」の山容が、この周囲に10指余り目にすることができるのである。 

山の頂上は周囲の山を眺める「展望台」とも言われるが、正にこの地は其の通りで、眼前の山塊から遥かな山並みまで、一面の画像に例えるなら驚嘆するほどの立体画像としても捉えられ筈である。

眺望を満喫した後は、北側のルートから一路下山を辿ることになる。


次回、「燧ケ岳・下山




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 尾瀬紀行(26)燧ケ岳  「下山」  ,



 
 燧ケ岳下山途中から観る、熊沢田代付近と会津駒の連山



周囲の連山を飽くことなく眺め、心身ともに満足して下山することにする。
先ずは石祠に無事な下山をお願いして山を降りる。 
下山路は熊沢、広沢の両田代から御池方面へと降りることになる。



爼ー山頂から、いきなり急斜面の雪面が待っていた。
見晴らしの良いところを下るが、景色に見とれている場合ではない。 
足元を充分見つめ、ステップを充分確かめながら一歩一歩下る。 

幸い踏み跡は充分に有り、見通しの良いところでなので迷う心配は無く、また、急斜面ながら雪が充分に締まっているので、雪崩の心配も無いようだ。

雪を被った大きな岩塊、ハイマツの急坂、シャクナゲのトンネルを下りながら、気が付くと眼下の熊沢、田代の雪の原っぱが(本来は湿原)、幽山の楽園のように輝いている。 
その上に、会津駒をはじめ西会津の山塊が圧倒的である。
  

山腹をトラバースするように高度を下げ、再び樹林帯へ入る。 
ハイマツ、シャクナゲ、ダケカンバの樹林帯、そしてナナカマドなどの潅木林と植生の変化も面白い。


一つのパーティーがスキー板を背負って上がってきた。

「お疲れさん、頂上まで行かれるんですか・・?」
「ハイ・・!」
「見通しも良く、今日は最高ですね。 お気をつけて行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」


こちらは下りだから気が楽である。
あちらは重たいスキーの板を担いでの登行であり、それに、歩いて登るのは大変であるが、スキーで滑る降りるのは一瞬である。

小生もスキーは若干やるが、ゲレンデスキー専門で山スキーは残念ながら経験がない。 
チョット羨ましい気がしないでもないが、それにしても山頂直下の急斜面は大変だろうな・・!。 
後は潅木帯の林間を縦横に駆け抜け、両田代の大雪原を滑りながら、御池へ降りるのであろう。 
確かに陽気もよく、時節柄、雪も充分締まっているし、又、燧ケ岳のコースは山スキーとしての条件も整っているようである。  


ところで、気が付いたが彼らの背負っているスキーの板は通常のゲレンデ用の板と違って、やや細めであり、取付け金具もシンプルである。 
つまり、「テレマークスキー」だったのである。

テレマークスキーはゲレンデでも時折見かけるが、其の滑り方は特徴があって、回転するときは踵(かかと)を固定しないために脚を交互に出しあい、重心を低くしてターンすることであろう。 

テレマークスキーは、主に「山岳スキー」で採用されやすいスタイルで、用具がシンプルかつ軽量で、ブーツの柔らかさも相まって歩きやすいのである。 
板にシール(滑り止め)を着けると、緩斜面ならそのまま登ってゆける利点もあり、山歩きとスキーを同時に楽しむことができるのである。


次回は、「熊沢田代




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