尾瀬紀行
残雪の尾瀬・燧ケ岳登行(5)

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 尾瀬紀行(9)尾瀬 「点線国道」   、



 国道401号線標高図 (「道中閑有り」;http://www.hyokozu.jp/henshu/  さんから借用しました)



因みに・・、
隣県同士でお互いの県へ車で行き来するための車道が無いのは、全国で群馬県と福島県のみであるらしい。
尤も、群馬県と福島県が接している総延長距離は20kmに満たない。 
この県境の中心に尾瀬沼があり、西には尾瀬ヶ原が広がる。



その昔、群馬県の沼田市から、尾瀬沼を通って福島県の会津若松へ至る道は群馬側からは会津街道、福島側からは沼田街道と呼ばれ、会津と上州を結ぶ交易路とされていた。

交易が盛んに行われていたのは江戸期のことで、初代沼田城主の真田信幸(信之;真田家当主・真田昌幸の子。 公式には上田藩および松代藩の初代藩主)が戸倉に関所を設けたのち、路の整備を行ったとされている。
交易された物資は、会津側からは米や酒、上州側からは油や塩・日用雑貨などで、尾瀬沼のほとりの三平下のあたりで中継されていたという。
 

また、幕末の戊辰戦争(1868年)の際には会津軍と征東軍が会戦しますが、最後まで抵抗した会津軍は、沼田街道を通って征東軍が侵攻してくることに備え、大江湿原辺りに防塁を築いたとされる。
その名残りが現在でも大江湿原に馬蹄型として見られるが、結局は会津軍は尾瀬を越え、戸倉で交戦になったため、この防塁が使われることはなかったという。


現在、この街道は尾瀬を通る国道401号(沼田街道・会津街道;重複区間あり)として、沼田市から会津若松市に至っている。 
但し、檜枝岐地区の七入、赤法華、沼山峠休憩所、尾瀬、そして片品村の三平峠、岩清水、一ノ瀬休憩所、大清水までの区間は登山国道、点線国道などとして知られる。 
(但し、この歩道区間は国は群馬県、福島県両県に保守、管理を委譲し、直接的には関与していないため、正確には国道指定はされていないらしい)



点線国道とは、国道の車両通行不能区間における国道指定された連絡路(海上国道を除く)のことで、同じく群馬県内では上越国境谷川岳山麓を通って清水峠から越後へ通じる国道291号、通称・清水街道がある。 この区間は、歩行でも一部通行不能部分がある。


小生のH・P 「上越国境・谷川岳」 http://www.geocities.jp/orimasa2001/kokkyou.htm


次回、古代の「尾瀬街道




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 尾瀬紀行(10)尾瀬 「古代の沼田街道」  、



もう一つ、この地域の点線国道を含む沼田街道は、古代・平安期の頃には開かれていたらしい。

平家全盛の頃、後白河天皇の第2皇子である高倉宮・以仁王(もちひとおう)は、専横を振るう平家に対して政権打倒を抱くようになる。 
そして、同調者・源頼政のすすめもあって諸国の源氏諸侯へ平家打倒の触れを出す。(治承・寿永の乱) 

しかし、反平家勢を当てに自らも挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れ、頼政は討ち死に、高倉宮も討ち死にしたとされた。 
だが、一部に高倉宮は行方不明になっているともいわれていた。

この時、高倉宮・以仁王(京都三条の高倉の館に居を構えていたので三条宮ともいう)の屍体の確認が完全ではなかったらしく、伝承ではその場を逃れ、東海道から甲斐・信濃の山路を越え上野(群馬県)の沼田から尾瀬、桧枝岐に抜け、そして大内(大内の宿)にたどり着いたという。

この時、同行していた以仁王の臣下に「尾瀬氏」(尾瀬中納言藤原頼実)という者がいて、彼は村人に『 あの山の向こうには、素晴らしい景色の湿原や沼がある 』ことを知らせ、「尾瀬ヶ原や尾瀬沼」の場所を知ることになる。 

だが、従者の一人である尾瀬氏はこの地で負傷し、間もなく病気のために息を引き取る。 一行は沼の麓の湿原に塚を築き「尾瀬院殿大相居士」と改名し、手厚く葬ったという。 
この時以来「尾瀬」という名称が付いたともされている。 

尚、この時の尾瀬氏は、以仁王本人という説もある。
以仁王と頼政の挙兵は短期間で失敗したが、その後の影響は大きく、以仁王の令旨を奉じた源頼朝や源義仲、甲斐源氏、近江源氏などが各地で蜂起し、治承・寿永の乱(平氏政権に対する反乱)が起こり、正規の源平合戦への幕を開けることになる。



湯之谷村銀山平の一角に「尾瀬三郎」の銅像が立つ・・!。

説明には・・、
『 尾瀬沼の発見者である尾瀬三郎中納言は、左大臣藤原経房の次男という高貴な生まれ。今から800年ほど前、時の権力者・平清盛と一人の女性をめぐる争いに敗れ、都を追われこの地に流れ着いた。都を去る時に皇妃から渡された虚空蔵菩薩像を生涯肌身離さなかったという。この悲恋の物語は現在まで語り継がれている 』・・、とロマンチックストーリーとしての伝承があるようだ。


湯之谷村の伝承に、尾瀬大納言藤原頼国の話しが伝わる。
後白河天皇第二の皇子高倉宮・以仁王は平氏追討令を全国の源氏に発し、挙兵をうながした。(これが後に平家滅亡のきっかけとなる) しかし、ただちに平氏側に企ては発覚し、奈良街道井手の里にて三十歳で討死したとされている。 

しかし、伝説では以仁王はひそかに再起を計るべく脱出を図ったとしている。
一行は沼山峠を越え、越後へ向かうが、供をしていた藤原頼国は、弟頼実の眠る尾瀬のふもとに留まることを決意し、以仁皇も願いを聞き入れ、これより尾瀬大納言藤原頼国は尾瀬平に住むことになったという。


次回、「一の瀬の岩清水




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