硫黄島からの電報

 

「硫黄島からの手紙」というクリントイーストウッド監督の映画が話題になっている。

昨年末にも放映された同名の和製のTVドラマも視た。

硫黄島の激戦は太平洋戦史上最も悲惨な出来事で、日米将兵が合わせて2万7千人戦死したという、戦後60年以上経っても日米両国にとって忘れることの出来ない悲しい戦いであった。

実は私も以前一度だけ硫黄島へ行ったことがある。19913月のことだった。

 

硫黄島は小笠原諸島に属するが、父島母島より更に200km南下したグアムサイパンと日本本土の中間地点にあり、東京から1,200kmの距離にある。一応東京都のはずである。

戦前は硫黄島本島にも部落があり、島民が住んでいたが、戦後アメリカから返還されてからは自衛隊が駐屯しているだけの島で、一般人は立ち入ることが出来ない島である。

私が行った当時はまだ米軍もいて、海上交通のための位置情報を送るためのロランCという電波灯台の大型送信所があり、米軍の一個小隊が運用していた。

 

硫黄島の激戦の概要はなんとなくは知ってはいたが、この島に滞在して戦時中そのままの光景や慰霊碑を訪問して驚き、また、島から帰ってから「硫黄島の死闘」という本を読んで、本当の意味でのあの小さな島での戦いを知ることとなった。

 

硫黄島に関する資料書物は多く、関心のある方はそちらをご覧いただくとして、私が滞在した7日間の硫黄島での休日?はこんな感じであった・・・・

 

その1.密輸

 

「来月の硫黄島の出張ですけど、課長も行ってもらえますか?」

「え、俺もかい? あんたら二人のはずじゃあなかったの?」

「契約の関係から3名出ることになっていて、去年の時点で防衛施設庁に届出を出していたのは課長も含めて我々3人だけなんですよ」

「俺は行ってなにすんのさ・・・?」

「いやあ、一応頭数合わせなんで・・・特に何もしなくていいです」

「何もしなくてって・・・2-3日だっけ?」

「いや、それが往復便の関係から、一週間なんですよお・・・」

「え! い、一週間!?」

 

かくして、突然舞い込んだ仕事だか、遊びだか、慰霊訪問だかわからない硫黄島行きの出張が決まった。

硫黄島へは一般人は慰霊祭等の招待客か島内の工事等作業者しか立ち入ることは出来なく、通常は全て入間基地からの航空自衛隊航空機による移動となる。

硫黄島の自衛隊基地には多数の電子機器や無線機器を納入していたから、うちの会社では硫黄島の地を踏んだ人は少なくないが、普通の人は金を積んでも行けるところではない。

 

今回の仕事の内容は新装した無線機の立ち上げ作業であったが、おそらくは1週間も掛かる作業内容とは思えなかった。しかしながら、便の運行の関係から木曜日に出発、翌週の木曜日に帰京というスケジュールは動かせなかった。

特に夜は宿舎にTVがあるわけでもなく、全くすることがないということから、3人でいろいろ企んだ。

 

3人のうち一人は現役のアマチュア無線きちがいで、残りの二人も昔やっていたので一応免許は持っているので、第一の作戦は「硫黄島アマチュア無線移動局」の設立であった。

硫黄島は一般人が入れない関係から、アマチュア無線局のペデイションといわれる移動運用サービスをやったことは、自衛隊員や米軍以外まずないはず。

それではと、本気になって会社の無線クラブに掛け合って有名な無線クラブのクラブ免許を借り出した。それから、無線機とアンテナ一式を揃えた。

私は私で、コンパクトな魚釣り道具一式を調達。

これらは出荷された工事機材の中に密かに潜り込まされて無事?我々に先立ち硫黄島へと出荷された。

もう既に16年も前の出来事なので、時効としておいてほしい。

 

その2. 轟音のC-1

 

春まだ早い小雪がちらつきそうな寒い3月だった。

青梅の自宅から車で入間基地へと向かったが、何しろ青梅から入間基地までは車で行けば30分とかからない。

まして、最近では圏央道が出来たので、あっという間のご近所さんのようなところだ。

こんなところに国際空港があれば便利なんだが・・とつくづく思う。 

いつもの国外脱出のための成田空港は青梅から行ったら、出発時間まで最低5時間を見ておかなければならない。 台湾とか上海とかの飛行時間3時間とかのところへ行くのに既に5時間を費やしていると向こうの知人に言うと「お前はなんて不便なところに住んでいるんだ」と馬鹿にされる。

 

入間基地の空港待合室には驚いた。

そこいらへんのローカル空港よりずっと立派である。

離発着便の電光掲示板、アナウンス、弁当を売る売店、到着時の荷物のターンテーブル、おまけにボーデイングパスまでちゃんと渡された。

違いは、鎖が付いて真鍮製の小判形した認識票が全員に渡されることである。

これを首からぶら下げる。

これは何の意味があるのだろうか? 戦死?したときの認識なんだろうか?

島にいるときはこれをいつも首から提げているのかとも思ったが、そうではなく、到着したら回収された。

我々3名が乗った飛行機はC-1輸送機であった。 双発の空自のジェット輸送機でぶっとい胴体の中には大型トラックも軽々呑みこんでしまう。 硫黄島にはこのC1のほかに、同じく空自の4発プロペラのC-130輸送機、海自のP-3C哨戒機など多数の大型機が本土と往復している。

寒風が吹き付ける滑走路を歩いてゆくと、C-1の太い胴体の後方ハッチが跳ね上がっていて、階段が下ろされていた。ジュラルミンの階段というより急な梯子を登って内部に入ると、一応座るところは指定された。

「あなたはここに座ってください」

「え!どこに座ればいいんですか?」

見ると、まるでベニアで作った模型飛行機の内部のような、ジュラルミンの丸穴のあいたリブ組みの間から、折りたたみ式のキャンバス生地で出来た簡易椅子らしきものが出てきて、まあ、申し訳程度にシートベルトもある。

壁面に背を向けて座るので、機首に対して横向きである。

そのシートに座ると、防音用のヘッドセットが配られる。目の前にはなにやらいかめしいOD色に塗った車両が鎮座しておる。 あっという間に所狭しと隊員さんたちが着座すると満席?になったようだ。

「ただいま当機は離陸いたします、シートベルトをきちんと締めない人の生命は当方では保証しません、なお、機内食は配られませんから、腹の減った人はおにぎりでも何でも勝手に食ってください・・・」

軍用機のキャビンクルー?が面白おかしくアナウンスするところが平和な時代を感じさせる。

キャビンの空調は快適に効いているが、騒音は凄い。離陸するときの轟音にはさすがにびっくりした。たまたま座ったところに直径30cm程度の丸窓があり、外の景色が見える。覗き込むと入間基地が遠くになっていった。

 

硫黄島までの3時間のフライトは、機内食も飲み物もサービスはなかったけれど、轟音の中での機内アナウンスが目的地はもうすぐと伝えるので、丸窓を覗くと、紺碧の海の中にリーフが美しい長三角形をした硫黄島が見えてきた。

C1から降りると、そこは既に真夏であった。かんかんと太陽が照りつけ滑走路は焼け付いていて、いきなりTシャツ一枚になった。

硫黄島は台地の島なので、どこからでも海が見える。

周囲たった20kmの島だが、実感として本当に小さな島である。

ここで何万人もの戦死者がいたと言う事実はこの地を踏むまで、実は私は知らなかった。

 

その3. 硫黄島の掟

 

仕事はあっけなく片付いてしまった。

到着した初日は基地指令や通信隊長へ挨拶に回ったが、翌日の早朝には予定していた作業を開始した。 装備工事は委託した業者と海上自衛隊の通信隊の隊員さん達が完璧にこなしていて、何の問題もなく、その日の夕方には現場の監督官に引渡しを完了、「ご苦労様でした」と言うことになってしまった。

私は二人のそばをうろうろしていただけで、全く何もしない役立たずであった。

やっぱり、思っていた以上のことの運びであった。

今回お世話になった海自の硫黄島通信分隊長のM一等海尉に報告に行くと、彼はにこにこ笑って、「硫黄島を楽しんでいってください」とのご発言。

M一尉は続けてこう言った。

「硫黄島の掟3カ条は守ってください」

「一つ、慰霊碑に礼拝してくださいね」

「二つ、海岸は遊泳禁止ですからね」

「三つ、夜間はなるべく宿舎から出ないでくださいね」

 

「慰霊碑には昨日既に参拝してきました」

「海岸線は波もないし、いい海水浴場ですよね、なんで泳いじゃいけないんですか?」

「鮫に足を食いちぎられたいなら、どうぞ・・・・・」

「・・・・・」

「宿舎から出ちゃいかんというのは?」

「・・・・ここがどういうところか知っているでしょう、まだ数千柱の将兵が地下深い洞窟の中で眠っているんです・・・だからね、やっぱり出るんですよ。大勢の隊員達が目撃しています・・・」

「・・・・・・・・」

 

まあ、とにかく、帰りの便までまだ5日もある。

硫黄島探検隊の休日がスタートしたのである。

 

その4.ビールコール

 

真っ青な空と、紺碧の海、白い砂浜とさんご礁の島に出張できて、1週間の休日・・・

こんな経験はおそらく最初で最後だ。

おまけに3食タダ飯付である。 島の中央部には大きな食堂があり、米軍を除く全員がここで朝昼晩と食事をする。 島には防衛庁に登録された人間しかいないから、この食堂に不審なやつが来る事はなく、従ってお金を払う必要も、食券もない。 一日中やっていて、かなり時間がずれていても好きなものを好きなだけ勝手に食べれる。そしてそのボリュームたるや、半端ではない。

 

食堂の反対側には小さな海自経営の売店もあり、「硫黄島煎餅」のような土産物まで売っている。現金を遣うのは自販機とここだけである。

 

ただ、このときの硫黄島はあまりいいタイミングではなかったのである。

当時の硫黄島には自衛隊員が約200名、米軍が10数名駐屯していたと記憶しているが、

ちょうど、中央滑走路東側に大きなリザーバーを建造中で、大工事をやっていた。

硫黄島は地下水がないから、戦前から飲料水も生活水も雨水をためて使っている。

先月からこの貯水池と浄化装置の大掛かりな工事がスタートしていて、工事会社の作業員が200人も島に投入されていた時期だったのである。

だから、沢山のプレハブの簡易宿舎や風呂設備なども作られていた。

問題は人口が一気に2倍になったことで、売店の商品が買いつくされてしまっていたのである。一応ただ飯3食付だから困らないのだけれども、ビールが買占めにあって、既にここ1週間以上も在庫切れなのである。 出る前の予備調査では、売店にはお菓子でもアイスクリームでもビールでもウイスキーでも何でもあって、おまけに原価だから、わざわざ本土から持ち込む必要は全くない! と言う話であったが、話が違っていた。

飯場では、密かにビールがプレミアム付で取引されていた。

やっぱり、南国の夜は、いや、夜でなくとも僕らは既に休日モードに入っているので、昼間からでも、冷たいビールは呑みたいのである。

隊員さんが気の毒がって、我々に缶ビールを3個差し入れてくれて涙が出るほどうれしかったが、彼らとて飯場の作業員にみな買い占められて困っていた。

ビールが島に到着するのは明後日だとのこと。

とにかく翌日から炎天下の島内探索を始めたが、今までこんなにビールを飲みたいと思ったことは後にも先にも経験がない。中東の禁酒国なら最初から諦めているが、買いたくても店に並んでいないという経験は、普通はないからである。

 

翌々日の夕方、海自の輸送船が夕日の中に現れて、遂にビールが到着した。

飯場も我々の宿舎も船着場を見下ろす高台にあったので、上陸用舟艇で荷物が陸揚げされてくる様子が丸見えである。

上陸用舟艇には缶ビールの箱が船が沈むのではないかと思うほど山積みで次から次からやってきた。

丘の上には作業員達、隊員達がずらっと並んで、「ビール!びーる!ビール!」とビールコールがかかる。僕ら3人も混ざって、思いっきりビールコールする。

冷えていないビールは飯場の人に教わって、エアコンの吹き出し口にビールの箱のダンボールでトレイを作って並べると、以外に早く冷たくなった。

 

その5.業務連絡

 

さて、夜は無線局をオープンした。

通信隊にはアマチュア無線クラブがあったので、挨拶に行き、また、通信隊長の許可も得ていたので、わくわくしながら無線局設置作業をする。

廃材の木柱を大木に縛り付け、宿舎の屋根との間にほんのいい加減な長さ20m程のダブルエレメントのHF帯(短波帯)のワイアーアンテナを張り、同軸ケーブルで宿舎の部屋に引き込んだ。

なんとか71421MHz、のバンドにアンテナが不十分ながら整合した。

でも送信出力は20Wも出てない。こんなんで東京まで届くのだろうか?

 

第一声を7MHz S君がSSB電話でCQする。

CQ,CQ,こちら小笠原諸島硫黄島移動・・・・ストロークJD1

すぐさま東京から応答が来る。

「感度59です!」

無線設備としては簡易で最低なものだったが、ロケーションが抜群だった。

南海の孤島であるから水平線まで障害物が一切ない上、おまけに宿舎はかなり海面からは高台にあって、都市雑音とは無縁な世界であるからして、最高のコンデションであった。

とにかく、1局との交信が終わると、くまん蜂の大群が押し寄せてくるがごとく、「うわーーーん」と一斉にコールしてくるのである。

全部混信して何がなんだかわからない。

 

アマチュア無線のコールサイン(局の識別番号)は全世界をプリフィックスといって、アルファベットと数字の組み合わせで地域別に分類されている。

日本はZone25にあってコールサインの頭に「J」がついているが、ここ小笠原はZone27で「JD1」というかなりレアな地域だから、マニアは必死で交信したがる。 おまけに同じJD1でも一般人が住んでいる父島母島ではなく、硫黄島ではなお更である。

「ストロークJD1」というのは、JD1エリアに一時的に移動運用している事を言う。

翌日からはうちのクラブ局が硫黄島にストロークしてサービスしていることが有名になり、なおいっそう待ち受けされ、加熱してきてしまった。

 

東京を出る前に、うちのクラブ局のメンバーや、職場の部下同僚には、「硫黄島から夜はアマチュア無線で電波を出して業務連絡するから」・・・という名目で無線機器を持ち込んだのだが、こうパイルアップしてはどうにもならない。

何十局も同時コールしてくる声を受信機のスピーカーから3人で唖然として聞いていた。

結局、弱肉強食の世界だから、強い電波を出すやつに返事をすることになる。

と、そのとき、こちらのコールサインをわんわん呼んでいるなかに、私の名前をかすかに呼んでいる声が聞こえたのである。

「おー、おー、F君だよあの声は」

なかなか考えたものである。全員がコールサインを呼んでいる最中に個人名を叫んだので、耳に飛びこんできたのであった。

かくして、なんとか会社の連中とも連絡交信が取れた。

7日間いて、3人で交代交代で夜半まで運用した結果、約2000局と交信した。

殆ど日本だが、南はオーストラリア、ニュージーランド、グアム、サイパンの局に混じって、米国本土やヨーロッパの局とも交信した。 帰ってからの交信カードを出すのが大変な作業であった事を記憶している。

写真はそのときに作ったQSL(交信)カードである。

 

その6.高級魚

 

硫黄島はとにかく一般の人が簡単には来れない特殊な島であるから、自然は手付かずである。

写真のQSLにある通称「沈船群」と言われる旧岸壁付近には戦時中の日米両軍の艦船が多数沈んでいて、漁礁になっているから、凄い魚が群れている。

磯釣りをやるような人なら生唾ものの光景がそこにはあった。

隊員さんたちも非番の日には結構ここに釣りに来るようだが、あっけなくメーター級の「ヒラマサ」が釣れちゃうとかで、「刺身にしたって1個中隊分もあり、一匹釣ったらもう十分なんで、釣りとしてはあまり面白くないですね」なんてことを言いよる。

メーター級のヒラマサなんて高級魚は築地では10万円とかで取引されているはずだ。

とにかく、岸壁から海面を覗いてみると、大型魚が悠然と泳いでいるではないか。

2mもありそうなピンク色したシイラが目の前を横切っていった。

 

私は鮫のいそうにないシャローの岩場で、持ち込んだフライロッドを振った。

ソルトウオーターのフライフィシングは一度やってみたかったのであるが、どんな魚がいるかまるで分からないので、とにかく3cmもあるでっかいグラスホッパー(イナゴ)とかコオロギのフライを持っていった。 大体こんなところにバッタがいるわけはないのだが、まあ、雰囲気である。
水深1mぐらいの波もない引き潮の岩場に下りて、さんご礁が広がる岩礁の上に立ち、6番のカーボンのパックロッドを繋いで、7番のフライラインを巻いたリールをつけて、振って見る。

フォルスキャストからバックキャストをして、フライラインが後方に延びきったところから、左手でラインをホールして、ラインにスピードを乗せて右手首を倒してフォワードキャストをすると、ラインはするすると気持ちの良い潮風に乗って、前方に一直線に伸びて行き、先端のU字形のループがほどけると、3番フックに巻いたでっかいバッタが20ヤード先の海面にふわりと着水した。

とたんに「バシャ!」っと水しぶきが上がり、何者かがバッタをくわえて走り出した。

リールがジージーと悲鳴を上げる。

がっと、ロッドを立ててラインを引き止めると、9フィート6インチのロッドが満月にしなる。

30ヤード先で派手な色をした魚がジャンプして水面を飛ぶ。

リールでなんとかやり取りして手元に引き寄せてきた魚は体長40cmあまりの見たこともない極彩色した熱帯魚だった。 

煮ても焼いてもとても今夜のビールのつまみにはなりそうにないので、そのままリリースする。

なにしろ、おそらくこの岩場で疑似餌で釣りをした人間は私が初めてであろうから、全く魚達はスレていないのである。全くの警戒心なく、入れ食い状態で魚が大型毛鉤に飛びついたが、どれもべらの大型魚のような毒々しいやつばかりで、お土産にならなかったが、時を忘れて楽しんだ。

連日ぼくは朝早く起きてこの岩場で遊んだ。

 

その7.探検

 

午後は3人で、硫黄島を探索して歩いた。

現在はどうかは知らないが、当時行ったときは戦時中そのままのような状況で、あちこちのトーチカから朽ちた機関砲の銃身が見えていたし、地下中に張り巡らされたという地下通路の入り口がところどころにあった。

まさしく、この地で戦闘が繰り広げられたのだと言う事実が目の前にあった。

写真にある正面の山は「すり鉢山」と言って、もともとは名前のように「すり鉢」を逆さまにした三角形のとんがり山だったが、1945年の米海兵隊の艦砲射撃で山の頂上が吹き飛んでしまい、台形の山になってしまった。

なにしろ「絨毯爆撃」と言う言葉があるけれども、ここでは1m四方に10発の砲弾が落ちたと言うから、絨毯どころか座布団爆撃であった。

 

砂浜は真っ白で、薄紫のハマナスの花が咲き乱れる、そして人の足跡は全くない美しい海岸線が続いている。海岸線の砂浜の島側は絶壁になっているところが多く、見るとその断崖の壁面には大穴が無数に延々と開いている。艦砲射撃の跡である。

砂浜の中にこんもりと高さ10mぐらいの隆起物があり、ガスが噴出している。隆起したものは黄色い硫黄が山になったもので、さすがに硫黄島である。

と、丘の上から隊員さんが3人降りてきて、洗面器とタオルを持っている。洞窟のほうに行ったので、露天風呂でもあるのかとついていったら、そこは天然のサウナであった。 さすがに地下水がないので、温泉は湧いていないそうだ。

砂浜を歩いてゆくと前方の浜が赤く染まっている。奥まって大きく弧を描いた砂浜の100mあまりが真っ赤なのである。 そばまで行ってみると、なんと赤いのは錆びた大小の弾丸と薬きょうが一面を埋尽くしているのであった。砂よりも重いはずだから砂に埋まるはずだが、波に打ち上げられてこの湾に堆積したのであろう、一面が錆びた薬きょうで岩盤のようになっているようだった。 一体どれだけの弾丸が放たれたのだろうか、ここだけでもダンプ10台分ぐらいの量がありそうだった。

 

その8.潜水艦出現

 

夕方は缶ビールを片手に、宿舎の隅にあるの丘の上の突端に座り込んで夕日を見た。

水平線を真っ赤に染めた夕焼けは兵士の流す血で染まった地平線と一つになって見えたという。はるか1200キロも本土を離れて、故郷を思ってこの丘から北の方角を兵士達は望んだのだろうか。

数日で落とせると踏んだ米軍の予測に対して2万の硫黄島守備隊が1ヶ月強にも及んで抗戦したのは、大和魂でも皇国への誓いでもなかった。

硫黄島を敵に渡してしまうことは、ここを拠点としたB29による本土空襲を許してしまう事を、硫黄島で死闘を繰り広げた兵士達は皆知っていたという。

国に残った大事な家族を救わんと思う兵士達の己の命を懸けた戦いであったのだ。

もし、硫黄島が米軍の予想通り数日で堕ちてしまっていたなら、日本本土空襲での被害は実際の数倍に及んだのではないかという見方がある。

 

丘の上から夕日が染めた海を見ていると、突然海面が盛り上がり、大きな黒い物体が浮上した。

海自の潜水艦がここまで来ているのだと思った。 隣に並んでもうひとつ小さいのも浮上してきた。

と、いきなり水柱が上がった。 潜水艦だと思ったのは大きな鯨の親子だった。

隊員さんがそばで「この時間になると毎日この辺に現れるんですよ」と言った。

鯨は南氷洋にいる動物だと思っていたぐらい、これも知識がなかったが、小笠原諸島はホエールウオッチングで有名なところのようである。

 

その9.硫黄島からの電報

 

夜はとにかく飲むかアマチュア無線をやるかであったが、5日目を過ぎるとさすがに夜の無線サービスも飽きてきたというよりくたびれてきた。 一度電波を出すと、もう、次から次から呼び出されて休む間がないのである。

 

明日は入間に帰るという水曜日の晩、残ったビールや酒を片付けようと、海自通信隊の隊員さんも二人加わって5人で車座になって賑やかに打ち上げをしていた。

宿舎の部屋の中は散らかり放題だったが、午後の便なので、まあ、明日片付けをしようと騒いでいたときだった。

 

「なんかCWが聞こえてないか?」S君が言い出した。

CWとはCarrier Waveの略で、モールス信号のことである。

全員で部屋の奥の壁際にころがしておいた無線機を振り返る。

無線機の電源が入っていたことには誰も気がつかなかったが、無線機のスピーカーからはか細い音で「トツーツーツー、ツーツートトト・・・・・」というモールス信号が流れ出ていた。 

夕方、既に外に張っていたアンテナを撤去して片付けてしまっており、アンテナのエレメントや同軸ケーブルは丸められて無線機の横に転がっている。

だから、無線機が電波を受信するはずがないのである。

信号音は弱いと思うとだんだんに強くもなり、波が寄せては引くように単調に延々と続いている。

「こりゃ、和文だな」誰かが言った。

モールス信号は昔からアルファベットの英文は全世界共通だが、「短長点」が2つ3つ多い「和文」のカタカナ50音信号というのがあり、日本固有のものである。

戦時中から現在でも日本人同士が無線電信に使っていて、一般的に船舶通信や当時の南極昭和基地などからの電信電報は、この和文モールスのカナ文字で送られていた。

 

聞こえてきたのは明らかに手打ちの和文モールスで、無線機が良くないのか音色はあまり良くはないが、力強く、正確なリズムで途切れなく打ってくる音は、背筋を伸ばして電鍵を叩く通信士の姿が見えるようである。

オートキーヤーを使わない縦型電鍵の手打ちのモールスは、通信士すなわち打ち手の感情が見え隠れする。

のんびり眠くなるような信号もあれば、あわてて急いで打っているようなものもある。

 

スピーカーからは明らかに悲壮感が漂う電信電報の音が次から次へと流れてきていた。

皆で思わず息を飲む。全員で無線機から出る音に集中する。

通信隊のY一等海曹が、紙に鉛筆でカタカナ電報のメモを走らせた。

 

「ワレ、イオウジマダイヒトマルキュウシュビタイニテ・・・・コウコクノメイウンワレニアリ、ゼントウヲヤキツクサントス、レンジツノテキシュウライニタイシ、ゼングンヲアゲテコレヲソシセントスルモ・・・・」

 

同じ電文が何度も繰り返されていた。

後日知ったことだが、私達5人がこの電報を傍受したのは1991317日のことであったが、ちょうどその46年前の19453月という月は、海軍中将栗林兵団長率いる硫黄島第109師団が36日に亘って上陸した11万の米海兵隊と死闘を繰り広げていたときであった。

 

Y一曹が言い出した。

「こ、これは・・・・ 自分は聞いたのは初めでですが、前任者からはこの季節にはこういう電報が聞こえることがあると聞かされていました・・・」

 

全滅した守備隊の中にあって、通信隊は最後の最後まで洞窟に残って本土への連絡交信をしていたのだろう。

通信兵が電鍵を叩く「コツコツ」という音が洞窟の中に響き渡る光景が目に浮かんできた。

必死に送り出した電波が冥土で彷徨って、時折異空間が歪んで下界に下りてくるのか、はたまた、いまだに洞窟の中で英霊が電鍵を叩いているのであろうか・・・・・

わざわざ、暗号をかけていない「平文」で送っているところから、誰かに聞いてもらいたいのではなかろうか・・・・

 

驚いたことに、当時の本土との連絡交信のための硫黄島守備隊通信本部は、この宿舎からほんの50mほど先の高台の洞窟の中にあったとのこと。

そして、私達がさっきまで張っていたアンテナの場所は、当時の通信隊の主空中線があったところだった。

 

「完」