林 芙美子 パリ日記

 強烈な印象を受けた『風琴と魚の町』について書こう思い、作品の洗い直しのため図書館へ行ったところ、昨年夏に上梓されたばかりの『林芙美子 巴里の恋』という本を発見。評伝とは異なり林芙美子自身の記した「巴里の小遣ひ帳」「一九三二年の日記」「夫への手紙」の3本で構成されています。 表紙には、今とは逆開きのクラシックカーのドアから出てくる林芙美子の写真。黒いシルクの洋装に身を包み、花をあしらった帽子をななめにかぶり、両手には白の手袋、左手でバッグを持って、まさに車から降りてくるところ。説明文が見当たりませんが、場所は間違いなくパリ。 (注:左記の表紙は後日貼付による文庫版。−2006.10.10)

 というわけで『風琴と魚の町』は日を譲り、きょうはこの新しい本のうち日記の一部を少々ご紹介したいと思います。なかなか興味深いです。

 林芙美子はベストセラーになった『放浪記』の印税を旅費にして、1931年11月4日シベリア鉄道経由でフランス・パリへ旅行に出ます(23日パリ着)。同書に収められた原本のほとんどはこのときに記されたもので、巻頭には希少な写真が掲載されています。日記はパリで最初に作られたデパート「ボン・マルシェ」Au Bon-Marche特製の育児日記帳に綴られています。日記帳の体裁だったので、それとは知らずに買ったようですね。(1932年1月24〜2月21日はロンドンで過ごしています。帰国は同年6月中旬)
 では少しご紹介……。



一月(JANVIER)

一月ニ日(土曜日 samedi)
 まだお正月だ ――夜サンミッシェルで南アフリカの活動(注:映画)を見る。仕事をしたい。呆然と街を歩く。固い街を歩く。溝の匂いのない巴里の街は、あんまり好きではない。夕方戸山氏来訪。 仕事をしたい気持ちでいっぱいなのだが、――夕食はフランス飯屋へ行った。スープにキモに、ほうれん草にビスケット。戸山氏とは別かん定でたべて別れた。

一月十四日(木曜日 jeudi)
 朝角のカフェで原稿を少しかく。
 ひるから一人でアルジャントユの戸山氏の宅へ行く。雑談四時間、山や絵の話をしてかへる。春の頃の気持ちがカラリとして大変さわやかだ。一人でアルジャントユの町を歩いて駅に行く。夜は隣室のフランスの大学生兄弟と遊ぶ。フランスの大学生はかわいらしくて無邪気だ。「兄が好きか弟が好きか」と聞くので「二人とも好きだ」と云ったら、「浮気者」と云った。

一月十八日(月曜日 lundi)
 きょうは性理的病(注:原文のまま)で朝からうとうとと眠る。
 銀行にも行かずに先の事を考へる。少しばかりの金を取って来るより、皆取って来て英国へ渡ってみよう。――早く帰りたくなった。 毎朝向うの沢山の窓のうち、たった一ツだけよく陽の当る窓がある。うらやましい。陽が当ると窓があいてお婆さんが背をむける。陽がいっぱい当る日本へかえりたい。仕事出来ず終日ベッドに伏す。淋しい。


三月(MARS)

三月二日(水曜日 mercredi)
 風邪にて寝込む。ユウ ゝツ。ひる間大正大学の坊主来る。パンとオランジュ買ってくれる。精気術でもんでなおしてあげると云って、肩をもんでくれたが痛いばかりで、なんともない。そこへ平山女史来訪。坊主は一寸タヂタヂしていたが、い ゝ気味だ。
「済みませんが、もすこしもんで下さい」あ ゝ全くこんな人達が、旦家の金をしぼってくるんだからやりきれない。

三月二十九日(火曜日 mardi)
 天気晴朗。ルクサンブルクの公園の中を歩く。松尾の妻君と二人連れで、至って長閑。木の芽がふきこぼれていてまるで、一文ロウソクをつけたようだ。空も子供達も美しい。それなのに、死にたいと云う事を考えて見る。十方空しと云う言葉も昔から好きだったが、甘いこった。
要心! 要心!

四月十七日(日曜日 dimanche)
 蚤の市に行くと云って、大屋に大屋のアミ、今泉君をさそってくれるが、止める。Sとニ時間ばかり話をする。Sかえってより、昼頃大屋ひとり蚤の市よりかえって来る。此男はどうも浅くて好きではない。モンパルナスぎわのホテルのサロンでラジヲを聞きながら話す。
「ボンソアルメダム、マドマゼール、ムツシユウ」さようならが済むとマルセイユの音楽。心静かにしてとてもい ゝ。星うつくし。茶うまし。



 ほんの一部にすぎませんが、ざっとこんな感じです。
 林芙美子の渡仏の真相は、既婚の身ながら上記引用部分にもでてくる戸山という男性を追ったものらしいのですが、まあ動機はともかく「行きたいと思ったから行ってみた」までのこと。その大胆で揺々とした女気(おんなぎ)がいじらしくもあり印象的です。

参 照)
『林芙美子 巴里の恋』今川英子編 中央公論社 2001年8月7日初版発行

2002 01.25



林 芙美子 覚え書き

 教育tv「あの人に会いたい−林 芙美子篇−」。19歳で尾道から上京して工場やカフェなどで働き、やがて流行作家になってゆく林 芙美子。その芙美子が、たくさんの女子学生たちと対話する、ラジオ放送の様子を収めた貴重な映像。10代のころの夢を聞かれて「絵描きになりたいと思っていました」という話など。中学の教科書で読んだ「風琴と魚の町」は強烈でした。

尾道 文学記念室
信州戸隠宝光社 お宿「諏訪」〜林芙美子

2005.12.10


林芙美子 「風琴と魚の町」 全文

2008.05.21







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