サンダカン八番娼館

 この作品は結果的に映画をさきに観て、あとから原作を読みました。映画は『サンダカン八番娼館・望郷』。社会派の映画監督・熊井啓が撮った映画版「サンダカン八番娼館」に添って、この作品をすこし振り返ってみたいと思います。記憶頼りのため筋立てが一部違っているかもしれませんが、その辺は勘案してお読みください。(この作品はノンフィクションです)

 女性史研究家の圭子(栗原小巻)は<からゆきさん>と呼ばれ南洋ボルネオへ売られていった女性たちの「生きた足跡」を辿る企画を立て、熊本県の天草地方に住んでいるらしい女性〜サンダカン八番娼館の唯一の帰国女性であり、また、唯一の生き残りである女性〜を、単身で取材に行きます

 東京から飛行機やバスを乗り継いでやっとたどり着いた場所は、草ぼうぼうの荒地。そこに何やら家らしきあばら屋が一軒、草木に埋もれるようにポツンと建っていました。しばらくしてそこへひょっこりと、小柄な老婆が通りかかります。圭子はその老婆に何一つ身分を明かさずただ「旅のもの」とだけ言って、話し込むわけです。すると老婆は圭子に宿のことを尋ね、まだ見つけていないと分かると、
「貧しい家じゃが、よかったら泊まっていかんか?」
 と熊本弁で声をかける。目を輝かせてうなずく圭子。この老婆こそサンダカン八番娼館の唯一の生き証人「おサキ」(田中絹代)その人でした。

 その晩から圭子の日程の許すいっぱいの日まで、2人の共同生活がはじまります。ボロボロの畳。襖。天井。何から何までおサキの家のあばら屋ぶりは徹底しており、おまけに拾ってきた野良猫がうじゃうじゃいて衛生状態もひどいもの。白ユリのように凛とした圭子役の栗原小巻と、あばら屋に溶け込んでいる汚れ役の田中絹代。(見ものです)

 以降ラストまでくる日もくる日も、おサキの売られて行く道すじやボルネオ・サンダカン八番娼館の回想が続いていきます。雨の日などあちこち雨漏りするので、金ダライがそこいらじゅうに置かれている中で回想が続きます。

 天草地方は山林は多いものの、あまり農作物の育たなかった地域だったため、北国の野麦峠のように親が娘を売った時代。おサキは甘言だけ聞かされ、ボルネオの日本人娼館へ売られてゆきます。

 おサキのボルネオ時代の様子は、原作ないしはビデオなどで(未読・未鑑賞で興味のある方は)たどってみてください。

 やがて圭子が東京へ戻らなければならない日がやってきます。自分自身もつらく、なかなか言い出せない圭子が、やっとの思いで別れのことをおサキに告げます。胸がいっぱいになり、声をつまらせながら、
「どうして?」
 とおサキに訊く圭子。
「どうしておサキさんは、見ず知らずの私なのに、何ひとつ素性を聞こうとしないの?」
 おサキはこう言います。
「誰にでも事情っちゅうもんがある。
相手が自分から喋るならまだしも、当人が何も言わんものを、どうして聞けようぞ」
 圭子はぼろぼろ泣きます。

 やがておサキは素性を明かした圭子に、自分の過去を「本にしてもよい」と言います。おサキもまた実の息子が母の過去を知られたくないため、母だけ遠く離れたあばら屋に置き、会いにも来ないという話をはじめて打明け、むしろ圭子の手を取って、他人にも関わらず長い間よく一緒に居てくれたと、感謝します。そして最後に一つだけお願いがあるという。
「あんたがここで毎日使っていたその手拭いをわしにくれまいか」
 圭子はずっと声をつまらせたまま、自分の手拭いをおサキへ渡します。
「これを使うたび、あんたを思い出す」
 おサキはここで初めて号泣します。

 そのあたりで圭子のおサキとの回想はラストを迎え、場面はその後日譚として、圭子があらためて訪れたボルネオ。ジャングルの奥の奥。そこにサンダカン八番娼館で体を晒した日本人女性の墓が、一直線状に何基も並んでいる。墓石がいっせいに「背を向けている方角」。その方角のはるか先にあるのは、 ……… 祖国日本。




【予告篇】サンダカン八番娼館 望郷
アップロード者 Rui_555. - クラッシック番組や昨日のナイトショー番組をオンラインで。


参考)
『サンダカン八番娼館・望郷』
1974年キネマ旬報ベスト・テン第1位
1974年優秀映画鑑賞会ベスト・テン第1位
第29回毎日映画コンクール女優演技賞受賞
第25回ベルリン映画祭(1975)主演女優賞 田中絹代

監督:熊井啓
脚本:廣澤榮 熊井啓
原作:山崎朋子
出演:田中絹代 栗原小巻 高橋洋子 田中健 他


+参考web) 北畠まつり映画祭 しまね映画祭

(2001.12.23)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
● 補 記 − 原作から
 図書館で本が見つかりましたので、圭子が東京へ戻らなければならない“その日”がやってきたときのくだりの原作の記述を載せておきます。


 わたしは、自分がどういう育ち方をし現在どのような生き方をしている人間であるかということを、いつかはおサキさんに打ち明ける義務があるし、その義務を果たすべき時は今夜を措(お)いてほかに無いと考えたが、しかしわたしは、それを打ち明ける前に、彼女がどうしてわたしの身の上を追求しなかったのかを知りたいと思った。それでわたしは、「おかあさんに、ひとつだけ訊いておきたいんだけど――」と口を切って、どこの馬の骨ともわからない自分のような者を三週間も滞在させておくあいだ、なぜその身の上について訊かなかったのか、わたしがどんな身元の人間だか知りたいと思わなかったのか――とたずねてみたのである。  するとおサキさんは、こんどは別の猫を膝の上に抱き上げながら、「そらあ、訊いてみたかったとも、村の者(もん)ば、ああじゃろ、こうじゃろと評判しとったが、そういう村の者より、うちが一番おまえのことを知りたかったじゃろ」と、やはり静かな口調で言った。そしてそのあとへ、
「――けどな、おまえ、人にはその人その人の都合ちゅうもんがある。話して良かことなら、わざわざ訊かんでも自分から話しとるじゃろうし、当人が話さんのは、話せんわけがあるからじゃ。おまえが何も話さんものを、どうして、他人のうちが訊いてよかもんかね。」と、これも穏やかな調子でつづけたのであった。

( 後 略 )
**
2005.12.25*




追悼 熊井 啓 〜サンダカン八番娼館〜

 ここ数カ月とりこんでいて、熊井 啓監督の訃報を十分把握しないまま、7月を迎えてしまいました。熊井監督は、野村芳太郎や市川 崑と同様、日ごろからたいへん尊敬していた監督さんです。

 熊井 啓といえば「帝銀事件 死刑囚」「黒部の太陽」「忍ぶ川」「天平の甍」「海と毒薬」、それから松本サリン事件を扱った「日本の黒い夏 冤罪」など社会派色の強い映画監督として知られていますが、個人的には「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年)が、もっとも印象に残っています。

 汚れ役ともいえるおサキに田中絹代、取材記者圭子役にシラユリのような栗原小巻を配し、いわゆる“からゆきさん”の人生の始まりから、現地ボルネオの墓石と化すまでを、当事者たちの心に寄り添った目線で描いた名作でした。(原作は山崎朋子)

 そのいでたちと容貌は、いっけん普通のサラリーマン風で、骨っぽい社会派映画監督のイメージとはだいぶ異なりますが、かえってそのへんのさりげなさがまた、いかにもシブく、同時にそこから、熊井 啓監督の実相を見据える厳しい姿勢と誠実さを、透し見る思いがしたものでした。…… どんな時代でも、つねに一石を投じる作品を撮り続けてきた映画監督・熊井 啓。

― 長年にわたる映画制作、ほんとうにおつかれさまでした。 ごゆっくりおやすみください。


 熊井 啓 ・・・ ’64年「帝銀事件 死刑囚」で映画監督デビュー。’75年ベルリン映画祭で「サンダカン八番娼館 望郷」が銀熊賞。同じく’87年ベルリン映画祭で「海と毒薬」が審査員特別賞を受賞。2007年5月23日午前、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去。76歳。

2007.07.07*


ETV特集 熊井啓 戦後日本の闇に挑む/2007.12.23







blog
index
Counter