あたしたちの間にあったわだかまりも解消され、いまはひたすら、ルクレシスの居場所と思われる場所に向かっている最中だ。
 ルクレシスがなんのつもりでアシュレイの体だけを連れ去ったのかはわからないけど、一刻も早くこの妙ちきりんな状況から元に戻したい。すなわち、アシュレイの体を取り戻したい。
 今はアシュレイがあたしにくれる優しい言葉のひとつひとつが素直にうれしかったし、あたしに長年かかえこんでた秘密を打ち明けたせいか、アシュレイは妙に晴れ晴れとして、隠し事の必要がなくなった解放感からか、心の内に浮かんだ言葉をつぎつぎ口にする。だけどちゃんと本音で話してくれるのがわかるから、変につっぱって反抗することもなかった。
 ただ、ひとつだけ耐えられないのが……。
「ねえアスナ、もう一度言ってくれる?」
「……や〜よっ、一回しか言わない!」
「そんなこと言わないで。おれのこと好きだって、言って?」
「――――」
 超真剣な目でアシュレイにじっと見つめられたら、まるで蜘蛛の巣に絡め取られたみたいに身動きがとれなくなってしまった。やだな、心臓がすごくドキドキしてる。アシュレイにも聞こえてしまいそうなほどの大音量だ。
 アシュレイは触れられないって忘れてるのか、あたしの頬に手のひらを寄せる。もし触れていたら、なんか怖いことになりそうで、内心であたしが安堵していたのは内緒だ。
「ねえ、頼むよアスナ。『あたしがいちばん、アシュレイのこと好き』? なんどでも再生できる魔法の装置でもあればいいのに」
 いやもう、ほんと勘弁して。あたしはアシュレイと違って、そういう言葉をためらいもなく口に出来る性格じゃないんだから。あんなことを言ったのは、これはもう口がすべったとしか言いようがないのよっ。
 もうずっとこんなことの繰り返しだった。あの化け物の森を抜けてから、太陽はそろそろ西に傾きかけているころだけど、アシュレイは危機感とか緊張感とかをどこかに置き忘れてきたのか、終始あたしにまとわりついて、あたしがうっかり口をすべらせて言ったことを、もう一度聞かせろと要求しているのである。そろそろあきらめてくれないだろうか。
「もぅ、アシュレイってばしつこい! 今はそんなことしてる場合じゃないでしょ。早くしなくちゃ夜になっちゃうよ」
「どうせ今日中にはあそこまでたどりつけないよ。どのみち、どこかで野宿するしかない。でもこのさい、空腹にならないっていうのは便利だね。おれも眠る必要がないから、不寝番ができるし」
 高い空を見上げてアシュレイは言い、木の根にけつまずいたあたしに手をさしのべた。もちろんすり抜けたけど。
「ああ、まったく歯がゆいな。触れられないのがこんなに不便だなんて思わなかった」
 なにか行動を起こそうとするたびに、あたしに触れられないのが不満らしく、この状況についてとうとうアシュレイから文句が出た。今さらなにって気もするけど。
「ねえアシュレイ、タージルは? それでルクレシスを呼び出したらいいじゃない」
 そうすればわざわざ登山なんかしなくてすむし。だけどアシュレイは残念そうに首を横に振った。
「タージルはおれの身体のほうが持ってるみたいで、ここにはないんだ。もっとも、ルクレシスはおれたちの状況なんて、とっくに知ってると思うけどね」
 それはアシュレイの言うとおりかもしれない。だって、こうなるようにルクレシスが仕向けたようにしか思えないもの。
「ルクレシスがアシュレイを突き落としたって言ってたよね」
「はっきり見たわけじゃないけどね。大雨が降ってたし、振り返りざまに突き飛ばされてたから、確実に顔を見たわけじゃないんだけど……」
 その場面を思い出すようにアシュレイは眉根を寄せたけど、そんななんでもない仕草を見ているだけで、なぜかあたしの心臓はいちいち反応する。さっきからうるさいくらいに鼓動が跳ねてて、いささかあたしは疲れ気味だ。
「ルクレシスはなんのつもりでそんなことを。まさか本気でアシュレイを殺そうとしたわけじゃないよね」
「それはなんとも言えないけど、でもそのおかげでアスナとこうして出会えたのも事実だしね。あのまま人間界にいたら、アスナと再会なんて、どんなに望んでもかなわぬ夢だっただろうから」
 言われてみればそんな気もするけど、それならわざわざアシュレイを崖下に突き落とすことはないでしょうに。
「とりあえず、行けるところまでは行ってみよう。まだ疲れてない?」
「さっき休んだから大丈夫、体力はこう見えてもあるほうだから」
 子供の頃から、食料をもとめて街中をさまよってたからね、基礎体力はそれなりにあったりするんだ。
 それからしばらく、他愛もない会話をしながら山頂を目指す。あたしとアシュレイが他愛もない会話だって、おかしいの。
 でも体がなくなったアシュレイは、たくさん抱えてたしがらみみたいなものも、体といっしょに置いてきてしまったのか、今まで見たことがないくらい晴れ晴れとした顔をして、口調も表情もまったくくったくがなかった。このままのほうが意外と幸せだったりなんかして。
「ルクレシスから体を取り戻したら、アスナ。このままふたりで精霊界で暮らすかい?」
「え、それはやめておいたほうが……。ふたりだけでいたら絶対、生活が単調になっちゃって、あっというまに精霊のカスになっちゃうよ……」
「そうかなぁ、おれは毎日アスナといられたら、自分を見失うことなんてないと思うけど」
「そんなの理想にしか過ぎないって。それにアシュレイがよくても、あたしはよくない」
「おれとふたりきりじゃつまらない?」
 世にも情けない顔をしてアシュレイがあたしを振り返った。なんか、ちょっと人が変わったんじゃないだろうか、この人。それとも、今まではあたしに遠慮して猫かぶってたとか? でも、今までのアシュレイもとても猫をかぶっていたとは思えないよね。
「この世に永遠とか絶対なんてないの。いろんな人とか物に刺激を受けて生きるから楽しいんでしょ。こんな世界に長くいたら、人間でいる意味がなくなっちゃうよ」
 おお、我ながら哲学っぽいこと言った! 自画自賛したけど、アシュレイもあたしを見てなんでか穏やかに微笑んでる。
「そうだね、アスナが外に向けて意識を開いてくれて、おれもなんだかうれしいよ。子供のころの君は、ほんとにどうしようかってほど、世間に牙むいて、危ういことこのうえなくて――」
 子供の頃のことを引き合いにだされるのは困る。あの頃のあたしには、信じられるものなんて何もなくて、自分を守るためにつねに神経を研ぎ澄ましていなければならなかったのだ。あの頃と今では、状況がまるでちがう。あたしがそう素直に思えるようになったのも、なんだかんだ言って、やっぱりアシュレイのおかげなんだろうな。
「とにかく、元に戻れたら人間界に帰る。あとのことは、そのとき考えればいいじゃない」
「そうだね」
 そう言ってやわらかく微笑むアシュレイの横顔を見ていると、やっぱりその手に触れてみたいと思う。
 触れられなくても、心はすごく近い場所にいるような気がするけど、やっぱりあたしたちは実体を持つ人間にすぎなくて、心ばかり満たされてもやっぱり手がぬくもりを欲しいと思うし、他人のぬくもりなんてまったく知らないあたしにとっては、たぶん人よりもそう思う気持ちが強いんだと思う。
 アシュレイに気持ちを全部ぶちまけたら、気恥ずかしさも当然あったけど、それ以上に気持ちがすっきりしてしまって、欲しいと思うものをひどく素直に欲しいと思えるようになった気がした。
「さ、早く行こうよ。なんなら夜通し歩いても平気だし」
 しばらく山道を登り続けていたら、夕焼け色に溶けていた山肌に暗闇が落ちてきた。太陽が山の向こうに沈んでしまったようだ。そして、太陽の消滅と同時にいきなり肌寒くなってきて、あたしは思わずぶるりと体を震わせた。
「寒い? 大丈夫?」
「ちょっとね、でも平気」
 なんて気丈に言い張っていたけど、ぴゅうと吹いた風があたしのうえに氷のような冷たい空気をおしつけた。なにこの冷気。さっきまでぽかぽか陽気だったのに、日が沈んだらいきなり真冬?
「……雪だ」
 アシュレイが暗くなった空を見上げてつぶやいた。つられて見上げると、暗黒の世界におちこんだ空から、白い雪が舞い散ってきた。幻想的とさえいえる光景だったけど、あきらかな異常な事態にあたしはいやな予感を抱いた。
 ――北の白竜って、雪の精霊のこと?
 ふとそんな考えがよぎったら、「正解」とでも言わんばかりに、白い竜の姿が雪を道連れにして降りてきたのだった。
「……ルクレシス」
 上空を見上げるアシュレイの声は、心なしか緊張をはらんでいた。流れるような曲線を描いた竜の体がゆっくりと舞い降りてきて、地面にたどりついた瞬間に人間の姿に変わる。
 夜の闇にまじるような黒髪、気の強そうな女の顔はだけどやっぱりとんでもなく美人で、形のいい紅い唇がアシュレイの姿をみつけてあやしく微笑んだ。


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