ぼくのすむまち

秋田市土崎港です。 秋田市の北部にあり人口8万人といわれてます。

まずは歴史から

古代

 

奈良時代には大陸から来た韃靼人が住んでいたという説もある。658年ごろ阿倍比羅夫が蝦夷征伐としてきた。733年には高清水の丘の上に出羽柵が作られ秋田村があった。1394年から安東氏の時代。(安東氏は長脛彦の末裔といわれている。)

 

 

 

江戸時代とそれ以前

 

秋田は奥羽の北西に偏り中央とはあまりに距離があり、山に囲まれ陸上の出入りは困難で天然に鎖国的だった。唯一西側が海に面していたので必然的に雄物川の河口が、山に囲まれた地域つまり今の秋田県の地域の運送の拠点となった。

わが土崎港が栄えたのは室町時代になって日本全体の海運が栄えたのに比例する。

織田信長の時代は諸外国との交易が自由であったので、西洋人や支那人も来ていたらしい。このころは群雄割拠の時代で海賊もいたらしい。

豊臣秀吉と徳川家康は全国を統一し秋田も例外ではなかった。群雄割拠の時代湊安東氏が支配していたがそのころは、雄物川河口周辺だけの交易だったが、1602年外様大名の佐竹氏の時代になると交易の場は広がった。1604年佐竹氏は久保田(秋田)の現千秋公園へ移った。

佐竹の時代になって雄物川流域全体が領地となったが山で囲まれた土地では隣国との交通路を開いたといっても大量の物資の運搬は困難だった。そこでますます港の利用価値が増した。

江戸中期から末期にかけて土崎港は大阪から小樽に至る北前船の寄港地として黄金時代をむかえた。1750年のころ人口6000人。

 

 

 

明治以降

 

 明治6年汽船が来航。大型船の時代に入る。河口に自然にできた港では水深が浅く大型船の入港ができない。

さらに明治38年奥羽線が開通、港の重要性が失われた。

しかし鉄道省の土崎工場、石油産出に伴う日本石油秋田製油所が建設されて商工業都市として発展した。

第二次世界大戦集戦前夜、製油所がアメリカ軍に爆撃された。

 港はその後、国内運送として石炭、木材、原油、また外国からは木材、製紙工場の木材チップ、非鉄精錬の原料の運送に使われてきた。

 現在では上記に加えてコンテナ船の入港が増えている。中身は電子部品、自動車部品、集成材原料等です。http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1153295334204/files/a_trade2006_02.pdf

 

       

 

 

現代のまちの様子

セリオンから東方向、白い高いところが太平山奥岳1370m

南方向、こんもり木が茂っているところが高清水の丘、その向こうは秋田。

  

 左上は冬の夜中、右と下は春先

町の中央部の商店街だけど、ご多分に漏れず郊外のスーパーに客足を取られ閑散としている。

セリオンから見た土崎港貨物駅

ちょっと山のほうに行くとこんな農村風景が広がります。(湯の里)

土崎駅、最近緑の窓口がなくなった。立ち食いそば、売店はある。

 

冬の突堤からみた港

高清水の丘に復元された門

高清水の丘から見た町

坂上田村麻呂が蝦夷征伐に来て建設したという城(柵)

 

ここは前に高清水小学校のグランドがあったところで子供のころは土器のかけらを拾って遊んだ。

 

イカの水揚げ

 

 

 

千秋公園のつつじ

 

 

土崎港祭り7月20,21日)  秋田の竿燈よりはずっと面白いとおもう。日本各地から若者が戻ってくる。

前日の子供山車

 

 

 

 

このような山車が各町内から25台ぐらい出る。

昔は戻り山は女性禁止だったが今は女性のほうが元気。

外様大名の佐竹家が秋田の領主としてきたとき初めて城を作ったあと地にできた土崎神明社。この神社に祭ったのが山車の始まり。

港ばやしでもりあがる。

舵棒とり、ブレーキをかけたり方向を決めたりする。

山車の半分は武者人形が占める。

行きと帰りの中間休み。酒を飲んだり飯を食ったりする。

うちの息子とその友達

秋田音頭をおどってるようだ。

祭りになると女性はみなきれいになる。

 

かまど神社の祭り  ぴょんたの町内のかまど神社の祭り、こじんまりして商業ペースでなく昔から地域のためのお楽しみ祭り。

はっかパイプ

露店が懐かしいのばっかりでしょう。これにバナナのたたき売りが入ればいいんだけど。

 

 

土崎の冬の様子。天災は少ないですが冬は厳しいです。

地吹雪の踏み切り

中野町内

新日本海フェリー、北海道には行きやすくなった。

冬の町

冬の港、向こうの山は男鹿半島の真山、本山

 

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