本文へジャンプ
                                         
UpTo Geocity
連絡先mail to me

かさおか歴史物語
アクセスカウンター出会いメル友

思いつくまま、気ままに、郷土笠岡の史跡をめぐります

魚渚郷

古代笠岡は魚渚郷と呼ばれていた。
その土地がどの範囲だったのか、誰が領有していたのか、どんな町がありどんな生活がそこにあったのか、ほとんど明らかにされていない。
しかし、魚渚郷がこの写真のように、海に向かった玄関をもった国だったことははっきり言えるだろう。陸路交通がまだ未整備の時代、神武東征から歴史が始まるわが国の交通と物流はすべて海路に依存していた。

甲弩郷

魚渚郷が海に対する玄関であれば、甲弩郷は陸地の街道に面した国であった。
古代日本を縦走する道は都から九州太宰府をつなぐ回廊で、遙か朝鮮半島にまで出兵せざるを得ない国情から発展していった。
この魚渚郷と甲弩郷を最初に領有したという記録は12世紀まで遡る。
この歴史的な人物の名前は、第10世陶山城主、和泉守盛高という。

大島郷

前掲の二郷が小田郡に属するに対しここ大島郷は浅口郡に属していた。写真左中央に聳える山は標高320mの御嶽山である。山頂には天台宗両寺伽藍趾が発掘されている。また御嶽山西北嶺からは海水が湾入し、この海を隔てた名切には縄文時代の遺跡津雲貝塚が発見された。174体の人骨と共に多くの縄文人たちの生活用品が発掘されこの地が古い時代から人類の定住に適していたことを示している。

10世紀初頭の備中国

延喜式(律令の細目を定めた格式、905年に醍醐天皇の命により藤原時平/忠平が編纂に当たり、927年[延長5年]に一応完成。)に掲載された式内社が笠岡には二座あり。
いずれも現存し、一座は神島内浦の「神嶋神社」、あとの一座が有田の「在田神社」である。
当時の社寺の役割は信仰という側面よりも政治そのものであり、その社寺を祭祀する集団が地方を治めており自治と文化の最小の単位(国)であったと考えられる。

2009/04/01 作成/2010/05/08 更新