情報と社会・資料1
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2006年11月19日
突然ですが質問です。

 例えば、仕事に出かけた時に、自分の家が自分の家であるというのは、どのような形で保証されているのでしょうか。物質的には何もありません。

 結局、人が相互に他人の所有を承認しあい、それが社会的な記録によって保証されているということであって、問題は人間の脳の情報処理と、相互確認のための外部記載情報なのです。

 貧富の差というのは、基本は完全に意識の問題です。つまり、究極のところ、人間の考え方を変えないと、世の中は変わらないのです。

 「階級対立が歴史を動かし、経済が歴史を動かした」というのは、戦後ずっと歴史観として支配的だった唯物史観の基本的な見方ですが、

  僕の考え方は、まちがってますか?

2006年11月20日

 << 結局、人間の脳の情報処理と、相互理解のための外部記載情報に所有権を記載するためにはお金という物質が必要です。>>

 僕は、お金は物質だろうか、という疑問も持っています。

 10円玉は主成分が銅の物質です。100円玉は銀が入っているのでしょうか。1円はアルミでしょう。1万円札は紙です。

 人間は「1万円札が10円玉の1000倍」だと知っていますが、物質世界にそれを示す根拠があるでしょうか。

 人間以外の生物にも、銅は銅、銀は銀、アルミはアルミとしての存在感があると思います。しかし、「1万円札が10円玉の1000倍」だというのは、物質世界が根拠となっているのではなく、人間の脳の情報処理によるのではありませんか?

 たとえばニホンザルに「1万円札が10円玉の1000倍」だということが、わかるかどうか、という事を考えた場合、この数量の違いは、ニホンザルにはわからないだろうと思われます。

 お金の本質は物質ではなく、数量情報である、と考えることについてはいかがですか?


2006年11月20日
<< 人間が生み出す富の総量が金の総量では表す事が不可能に
なった為、管理通貨制度に移行した>>

 宇宙空間から見た地球を思い浮かべながら考えてください。「人間が生み出す富」とは、どんな物質を指すのですか?

 僕は、「物質」とは「空間を占め質量を持つナニカ」であるというサイエンスの定義のままで世界を考えたら、世界はどのように見えるか、をテーマにしています。

 「人間が生み出す富」とは、この場合、サービス他、物質以外のものも含んでいると思います。マルクスは物質以外のものを、どのように考えたのですか?

 貨幣が商品であったという事を言われるのは、多分この場合、僕が「貨幣の本質は数量情報」言ってることに対抗して、貨幣が「物質」であると言いたいのだと思います。

 しかし、貨幣が商品だったということが、何故に「貨幣は物質である」ということの説明になるのですか


2006年11月21日
共産党が大事にしてきたマルクス哲学に対する疑問を、3回の書き込みで、僕はすでに概略明らかにしてきたつもりです。

 1所有は脳の情報処理である。
 2通貨の本質は数量情報である。
 3世界が「空間を占め質量を持つナニカ」である「物質」で構成されている、という見方で貫徹する。

 僕の論点は、哲学史でいう唯物論と共通項多く、また、科学的だと思うのですが、マルクス哲学の有用性は、共産党の方から見たら、また格別なんでしょう。

 僕もマルクスが持っていた有用性、強者の論理を反転させる論理なんかは、とても興味深いと思っているのですが、共産党の方から見たら、僕の論理はどこが具合が悪いのですか?

 また、共産党の方は、なぜ科学性の根拠を、僕の言う「空間を占め質量を持つナニカ」である「物質」には置かないのですか?


2006年11月22日

僕は、マルクスでない、一般哲学で言う唯物論と認識論の関係で、マルクス認識論に疑問を持った者です。

 科学の分野でも、人間の側の「主観性」を説明している方がおられます。僕の片足はそちらに置いてあるのですが、その方面の方とも一線を画しておりますので、とにかくここでは、自分の考えを説明します。

 僕の唯物論というのは、宇宙から見た視点と、極小粒子とエネルギーでできた物質世界という、両極端の見方を組み合わせて、この世界を「空間を占め質量を持つ」物質として考える、というものです。

 人体は、膨大な数の細胞群の一集合形態であって、原子でできた分子構造物が絶えず出入りしている生命です。

 人間も物質の集合体。その人が物質としての「金」を見る。そこには何が起きているのでしょうか。

 「金」の側に、元素記号Au以外の何か物質があるかと言えば、他には何もありません。

 僕の見方によれば、「価値」という観念は、人間の側にあるのであって、「金」にはないわけです。だから、「金」に「価値」がある、というのは正確な表現ではないことになります。

 ではどういう構図が描けるかというと、「金」を見て、人間の脳の中に様々な情報が浮かび上がり、それに他者が欲する物という情報があれば、その「価値」観念は、社会性を帯びる、そういう構図になります。

 「金」に「価値」があるわけではない。

  全くの基本のあたりですが、この点についてはいかがでしょうか。


2006年11月22日
砂金は、ある所では、川で浅い盆などを揺すれば出ます。精錬なんてものじゃなかったです。

 かつて自然に金があったところでは、大して労力は必要なかったんじゃないかと思います。今は莫大な労力をかけても利益が出るということで、いろいろ複雑にやってますが。

 金に価値があることになったのは、投入された労働量の問題ではないと思います。変質しないこと、加工しやすいこと、輝く美しさ、こういった性質を、人間が多方面で必要としたからではないでしょうか。

 人間労働というのは、自己または他者の需要が見込めるから投入されます。そして他に売却されて価値が決まるのであって、労働が投入されれば「価値」が発生するわけではない。多大な労力が無価値になってしまった例はいろいろあります。

 最近では夕張市のレジャー施設の話。

 「価値」は、需要に関する情報が基準ではありませんか?供給が少ないという情報があれば、確実に高くなる。


2006年11月24日

 僕は昔歴史学を勉強しまして、そこで唯物史観というのに出合った事、それがマルクスとの係わり合いの始めです。

 僕は高校の頃に、この世界を「空間を占め質量を持つナニカ」である物質でできたものとして確認しようとしました。「宇宙から見る視点」と「極小粒子とエネルギーの世界」、この両極端の見方を組み合わせて考えようとしたのです。

 その結果、お金の本質は数量情報であると思ったのです。

 ニホンザルに1万円札と10円玉を渡しても、その差1000倍というのは、サルにはわかりますまい。サルには紙と金属の銅くらいにしか識別できないでしょう。数を理解する人間だけが、1000倍を理解します。

 紙と銅にそのような違いを示すものはない。印字してある数字の問題であり、それを見て、脳で情報を処理しているから、お金の価値の違いがわかるわけです。

 問題は人間の脳の活動のほうにあるのであって、お札や硬貨にあるのではない。それが物質世界で起きている現象です。

 また、所有も脳の情報処理である。そういう話を最初の4文くらいで書き込んで、マルクス哲学はやめたほうがよろしいのではないか、と、始めたのです。

 少し前は「歴史教科書問題」の部屋で、前方後円墳は350年間に5200基つくられた、それを古事記・日本書紀が語らないのは、史料批判の考え方からすると不自然であるし、考古学の発掘成果を教科書に載せないのも不自然である、そういう話をしておりました。